創業者「野村徳七」 6.父業「野村商店」の継承

明治30年に入って経済界は不況にあえぎ、政府は3月に、貿易の回復と金利水準の低下を図るために金本位制を採用した。日清戦争が証券市場に与えた波紋は拡大し、その影響は次第に深刻化した。信之助が学業を断念して家業を継いだのは、このような時だった。

母の死去と結婚、父業の継承独立という一身上の事情だけでなく、経済界の不況に加えて日露の開戦は避けられない情勢となり、信之助を取り巻く環境も大きく変化したが、この時期、「野村商店」には特筆すべきことがあった。新店舗の竣工である。明治37年2月、東区本町二丁目に土地を買入れて建設に着手した新店舗は、39年秋に竣工、9月1日移転開業した。これをみても、信之助が家業を継承した後、わずか2年間で、いかに「野村商店」の事業を発展させ、営業成績を向上させたかをうかがい知ることができる。

店舗建設の次に打った手は、人材の養成と調査活動のための準備である。信之助はこれについての抱負を、「蔦葛(つたかつら)」(徳七の自叙伝的日記)で大要次のように述べている。

「株式、公社債の投資は、銀行の各種預金と同じように、将来歓迎される時代が来るから、商品についての知識を十分もつべきである。証券の本質の科学的研究が必要である。そして、その真価を見出し、これを投資の対象として、顧客に推奨宣伝する。これこそ、進歩的な理財行為である。株屋、相場師などと軽侮されるのは、ただ目前の利益に追われるからである。会社、銀行の資産内容をよく検討し、業績、将来性を調査することが大切である」「こうして取引を行えば、世間で投機、思惑などと評しても、恥ずるところなく、信念を押しすすめるべきである」と結んでいる。

『蔦葛(つたかつら)』 原文より

「私は先ず考へました。我々証券業者は、我々の商品について、もっと充分な認識を持たねばならぬ。公債、社債、株式等の放資(投資)は、将来必ず銀行における各種預金と比して、優るものとしてもっと歓迎されるべき時代がくるのではないか。然るにこれを妨ぐるものは取り扱ふ業者の人格が低いからである。一面に放資知識が極めて幼稚なるがためである」 「目前に現はれつつある日々の強弱関係や、大手筋の動くままに操られて、売買に浮き身を費やすから、世間は株屋と言ひ、相場師などといふのである。個々の事業会社、銀行に就いて、篤と資産内容にメスを加へ、業績を検討して、将来性を判断し、市場性なきものには、これを与へるべく協力していくべきである。見渡す限り、東西市場を通じ、この方面より我々に与へられたる業務を明朗にすべきである。そのために、依託され注文されていく行為は、これを定期に、延に、或いは直の取引に、現物に、各々特徴ある方向に向かって、取り扱ふことは、すこしも恥づべきでない。これを投機と断じ、思惑と評すとも、勝手にさせて置けばよい。敢然として我等は我等の信ずる道に向って鋭意驀進すべきである。」当時の業界にあって、信之助が、時代の先端を行く進歩主義者であったことは、この抱負に明らかに示されている。

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