創業者「野村徳七」 9.「野村商店」の地盤確立

明治40年1月8日の意見広告

日露戦争は激戦の末、日本が勝利し、明治38年9月に講和条約が結ばれたが、条約の内容は、国民の期待に反したとの声が強く、一時は失望相場すら現出した。しかし、インフレ高進下における企業収益の増加と配当の引上げにより、株価に好影響をあたえる素地は十分存在していた。そして、39年の初頭からそれが現われ、ついに爆発的相場となった。

その後、一時、一進一退の市況となったが、低金利と金融緩慢で、39年末ごろから相場は再び高騰。40年初めになると、新高値が連続し、まさに熱狂相場となった。ところが、40年1月21日を機に、突如として大反落に転じ、市場は混乱した。日露戦争後の熱狂相場という市況の推移のなかで、信之助は強気で臨んだが、やがて、熱狂の大反動を予見し、180度の大転換を行って、敢然として売り向かった。明治40年1月8日には『大阪野村商報』に、有名な「相場は狂せり」との意見広告まで出した。

実は、この直前、信之助は資金繰りに窮していた。だが、資金供給が底をつく寸前に、当時の鴻池銀行から100万円の融資を得ることに成功していたのである。当時の鴻池銀行や住友銀行の資本金が約300万円であったことを考えると、信之助がいかに膨大なリスクを背負ったかが理解できる。信之助は、鴻池銀行を説得する時、「私が命を賭けて考へたことだから、決して間違ふ筈はない」(『野村得庵伝』)と断言した。信之助の売り乗せ戦法は見事に的中し、莫大な利益を得た。ここに「野村商店」の基礎は、いよいよ強固なものとなった。