創業者「野村徳七」 10.徳七襲名

明治30年代後半頃の徳七

信之助が日露戦争後の市場暴落を予見したのは、単なる相場師の勘とちがい、科学的調査と経験の上に、その透徹した頭脳をひらめかしたからにほかならない。『野村得庵伝』には次のように記されている。「氏は善きものは善しと言ひ、悪しきものは悪しと言ひ、善きものが不当に売り崩される時は進んでこれを買ひ、悪しきものが不当に買ひ煽られる時は進んでこれを売るといふ風で、氏は常に正面から堂々と戦った。氏が率先して調査部を設立し、これを自己目的の利益のためのみに利用せず、進んで一般に公開し、出来るだけ社会全体の用に供しようとしたことは、(中略)最も進歩した遣り方で、かかる進歩した遣り方が、明治の末期頃、すでに三十歳前後の一青年によって採用されたといふのは、たしかに驚嘆すべきことである。」

このときの東西市場での売り買いの攻防戦は激烈をきわめ、後世の語り草となっている。信之助にとっては、独立後はじめて桧舞台に上り、そして、大勝利をおさめ、野村の存在を証券界に大きくクローズ・アップさせて、盤石の基盤を確立した記念すべき戦いであった。また、この戦いは、信之助の生涯に大きな影響を与えた。彼の株式観、事業観は、このときの体験によって形成されたところが少なくなかったのである。

明治40年4月、初代徳七は、胃癌のため再起不能となり、隠居の決意をかためた。同年9月、家督を信之助に譲り、徳七改め浄功と改名した。同時に、信之助は徳七を襲名し、家督を相続した。ここに二代目徳七が誕生したのである。隠居後の初代徳七は、明治40年10月1日、58才の多難な人生を終えた。