
明治41年の5カ月間に及ぶ欧米での旅で得た知識に基づき調査部の拡充が行われた。
「調査部が予定の如く拡充強化され、すべての計画が着々として実行に移されるや、その活動は慥かに驚心顎魄に値するものがあった。それまでは朝日、毎日に両新聞紙が、日々交代で野村の株式日報を載せ、又特色ある野村商報が、日々調査部の健在を示しているに過ぎなかったが、それでも尚斯界の耳目を聳動し、株式日報の如きも続々としてその模倣者を生むに至った位で、八代祐太郎氏の如きも当時の野村商店が支払った広告代は、朝日、毎日の両紙だけで、毎月一万円に上がっただらうといひ、 且つ、『それが45年前の一万円だから肝玉の小さいものには出来ない』といっているが、これだけ新聞広告に力を入れるといふことだけでも、氏がすでに時代を先見する異常な能力を有っていたことを知るに足るが、拡充強化後の調査部は、なかなかその程度で満足するものではなかった。勿論金を惜しまずに使ひ、あらゆる手段によって、能ふかぎり精密な調査研究をなすとともに、それを一般に周知せしめるため、更に種々の斬新な方策を案出した。我国最初の株式年鑑の如きも、その結果として生まれたに外ならない。」 (『野村得庵伝』)