


国債に係わる広告欧米外遊からの帰国後、徳七が次に着手したのは、海外と日本の公債を取引することだった。 帰国直前の明治41年7月に成立した桂内閣は、外債発行を推進した。この外債発行は、当時の財政破綻を救い、金融を緩和させるために行われたのだが、政府の非募債主義の実行、公債償還の増加が、海外の日本財政に対する信用を高めた。こうして43年中に、4分利英貨公債1,100万ポンド、4分利仏貨公債4億5,000万フランの募集に成功した。 この外債の流入によって、金融緩和、金利低下がもたらされたため、国債の市価は回復した。その結果、低位で買い込んでいた外国人の日本公債取扱い業者は、さかんに日本に売り向かい、大きなサヤをかせぐ者もでてきた。
明治40年代前半、日本の公債の海外市場は、ロンドン、パリ、ブラッセル、アムステルダム、ニューヨークという順序であったが、直接取引はほとんど行われず、在日外商を通じて行われていた。 徳七は、海外との公債取引の準備として、語学のできる社員を採用し、日本の紹介、大阪市場の説明、「野村商店」の宣伝のためにつくし、英文の営業報告書を発行、近い将来、海外との直接取引の意のあることを明らかにした。 このとき英語ができる店員として採用された浅野銕二氏は『野村得庵伝』の中で、次のように語っている。
『野村得庵伝』 より
「入店後一週間もすると、家長は私を呼び寄せ、『近年さかんに公債が輸出されてゐる。東京では公債の海外売出が盛んに行はれているのに、大阪ではこれをやるものがない。自分はこれを遣りたく思って、そのために君に来て貰ったのだが、ぜひ成功して貰ひたい』と命令し、『全力を尽くして大いに市場を開拓して欲しい。自分であちらで調べて来た営業組織やサーヴィス振りなどは大へん行届いたものだ。先づ第一着手として、英文の手紙を書くとか、パンフレットを書くとか、英文電報を打つとかいふところから始めたらよかろう』と言われました」