
調査部の強化、海外との取引開始にあたって、もっとも必要としたのは、学校出の知識人の採用だった。当時の店員といえば、ほとんど丁稚上りの者が多く、他の多くの店は、それで満足していた。 こうした慣習のなかで、徳七は敢然とこれを打ち破り、学校出の店員を採用する方針を決定した。 先の調査部創設の際に、大学出の大阪毎日記者、橋本氏を採用したが、欧米外遊からの帰国後は大学、専門学校出の新卒者を大幅に採用した。
こうした人材の採用とともに、店内の執務規律の改革、組織機構の変革が、次々に進められた。
店内の統制上、もっとも厳重に取締まったのは、店員の自己売買であった。この禁止は、明治40年ごろからすでに行われていたようであるが、帰国後は一層きびしく取締まり、44年8月17日、店命66号で、「自己売買(株式、米穀、綿糸)は、定期、直取引を問わず禁止、犯す者は処分する」「株式、公社債等の投資には、店主、幹部の許可を必要とする」という二ヶ条の規定を定めたのは、店内の統制上の必要からだけでなく、証券業者の品位を高め、その地位の向上を図るというところにその真意があった。 したがって、店則を犯し、統制を乱すも者は、容赦なく処分された。 その反面、店員の待遇には、とくに意を用いた。
『蔦葛(つたかつら)』 より
「これは仲買人の大部分が、投機を以て本能と心得、証券報国などといふ考え方は、殆ど皆無であると申してよい、誠に昼と夜との相違である、我々は先づ何よりも仲買人の品位の向上を計り、進んで金融機関との密接な連絡を計らねばならぬことを痛切に考へさせられたのであります」