

当時の店舗内部徳七が腐心したのは、店の統制のみでなく、組織を近代化することであった。そして、店員の意思疎通をはかるために、上から下までのタテの連絡のみでなく、ヨコの連絡を密にすることにした。 たとえば、店内に日曜会を設けて、タテ、ヨコの事務的連絡を行い、業務の実際的研究の機会を与えたりした。
これとともに徳七が意を注いだのは、店員の教育である。 明治40年6月ごろの店務細評に、店内教育の必要な所以を力説しているが、42年10月の店命で「学業劣等、不熱心なるものは退学を命ずべければ、生徒は其心して勉励すべし」と、厳命している。
店員教育には、学校出のインテリ社員があたり、授業は日曜、祭日、月末勘定日を除いて、毎日夜間行われた。このほか、教育の方法として、店員を簿記学校に通わせたり、読書会、科外講義などを開いた。
このように、徳七は、人材の採用、店の組織機構の変革、統制、店員教育など、欧米外遊の新知識を導入して、ひたすら「野村商店」の発展を図った。
「各部各係は各々責任を以て事に当り幹部は身を以てこれを率い店主の統制下に、協力一致打って一団となり、恰も野球のチームの如き寸隙なき活動をやって来たのであります」(『蔦葛(つたかつら)』)
また、人材の登用については、『野村得庵伝』の中に次のような言葉があり、人材の登用と同時に、組織全体のチームワークも最重要視していたことがわかる。
『野村得庵伝』 より
「事業に成功するためには、自分の使っている人間を信用しなければならぬ」、「自分独りが如何に偉くても、それで大きな仕事ができるものではない。大きな仕事を遣るには、ぜひとも人を得なければならぬ。武田機山の行った如く、『人は城、人は石垣、人は掘、なさけは味方、仇は敵なり』で、若し人さえ得られると、その他の問題は総て第二義的なものとみなしてもよい」、「他人に対して絶対信頼を以って臨む、いはば白紙委任状を渡す以上、他人の責任を問ふことが峻厳であるのは、勿論当然の帰趨だといはなければならない。従ってよし事を誤っても、充分な誠意を有ち、旺盛な責任感を抱いていれば、野村氏は多くは之を咎めないが、若し誠意において欠くるところがあり、稀薄な責任感しか有っていない場合には、氏は断じてこれを黙過せず、常に厳罰を以って臨んだ」
『蔦葛(つたかつら)』冒頭の自序の中に次のような記述がある。「私は予てより資本力の培養は元より肝要のことでありますが、人材を養ふこと、有為の人物を蓄へ、適材を適所に配することは、寧ろ資本力以上に大なる財産であることを強調して参りました。 幸ひ今日の野村傘下には、此の有力なる人的資源と組織とを有して居りますことは、他の財閥古豪に比して少しも遜色なきことを、公言し得ると信じます」
これが晩年に自らの人生を振り返った自著『蔦葛(つたかつら)』の冒頭を飾る自序の文章であることからも、人材の登用をいかに重視していたかがわかる。