

当時の大阪証券取引所第二次桂内閣(明治41年7月−44年8月)は、43年2月、東京、大阪の有力銀行16行を招いて、4分利借換公債募集のために、内協議会を開いた。これは、43年度に満期償還となる5億2,000万円を、政府の負担軽減のため、4分利に借換える必要に直面したからである。 この協議会こそ、わが国の公債引受銀行シンジケート成立の端緒をなすものであり、これ以後、国債の公募は、政府と公債引受銀行シンジケートが協議の上、シンジケートとの予約によって行われることになった。
徳七は海外視察後、「公債の引受けは証券業者こそ行うべきである」と痛感していたので、政府およびシンジケート団に対して、公債引受けへの参加、あるいは、下引受けのいずれかを認めるよう交渉を開始するとともに、広く同業者に呼びかけた。 大阪では黒川、高木、竹原の有力業者を説き、さらに進んで、東京の小池、福島、林、神田の4店に参加を要請した。こうして43年2月、東西に下引受団が結成され、第1回4分利公債1億円の公募に際しては、500万円の下引受けに成功した。 この第1回の下引受けは、金額はともかくとして、証券業者が公債の引受けにはじめて参加した点で、証券史上に永く記録さるべき出来事だった。なお、翌44年3月に行われた第2回の下引受けからは、北浜の藪田、松田、杉本の3店も参加した。