

大阪証券取引所の立会風景引受業者としての徳七の活動は、明治44年に入ると、さらに重要な一歩を進めた。 当時、業者はまだ社債を取り扱わず、したがって、社債の現物団なるものはできていなかったが、44年に「箕面有馬電気鉄道」( 「阪神急行」の前身)の社債200万円の募集にあたり、徳七は、前記黒川、高木、竹原の現物問屋店を誘い、現物引受団を結成し、その社債を引受けた。「蔦葛(つたかつら)」第5章(10)で徳七は、この結成の意義について、次のように述べている。
「箕面有馬電鉄社債の引受募集は見事に成功したのみならず、これはわが国証券業者の引受募集業務の濫觴でありまして、そのころ銀行の専門であり、また、相当高い引受料とによって独占されておった業務でありますだけに、一般財界に大きな反響を与えました。」
また、公債や社債の初引受という快挙について徳七は『蔦葛(つたかつら)』に次のように記している。
『蔦葛(つたかつら)』 より
「この期において投資は期せずして公市社債に向い来り、当店は政府の四分利政策遂行に当り証券業者として活躍したることは既に金融の項に陳べたるが如し、而して箕面有馬電気鉄道において社債発行の意ありと見るや、当店又逸早くその引受を約し、三店を誘ひてここに社債の引受行為に第一歩を踏み出すに至れり、而も其成績頗る良好にして今後現物団を組織して益々本事業に力を注がんことを盟ふに到らしめしは、仮令欧米証券業者の翼に做ひたるものなりと言へ、当店は聊か其の指導的任務を全ふしたるものとして誇るにたらん」