野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤
企業価値創造プロセスの旅の最大の難所であったマテリアリティを越えて、経営戦略の登山口までやってきた。価値協創ガイダンスではビジネスモデルと戦略の間に、オリジナル版では「持続可能性・成長」、2.0版では「リスクと機会」という項目があるが、いずれもESG課題やステークホルダーとの関係性、リスク管理を内容としている。ESG課題が価値創造にとって重要であれば、前回触れたようにマテリアリティに含まれると解釈できる。ステークホルダーとの関係性に関しては、旅の最終盤、ガバナンスで議論したい。リスク管理も経営戦略の実行や進捗管理に際して触れることになろう。
さて、難所を切り抜けたからと言って経営戦略が楽な道という訳ではなそうだ。琴坂将広「経営戦略原論」(東洋経済新報社 [2018])を紐解くと、「経営戦略という言葉は、同床異夢の巣窟となる。」という記述がある。その心は言葉の定義が定まっていないということである。実務上は戦略というと「計画」「取組み」くらいの意味で使っていることが多いのではないか。あるいは戦略的という言葉には「ちゃんと意図をもって」という意味を込めていることが多い。我々は学術的な厳密性を求めているわけではないので、言葉の定義に深入りすることはしない。ただ、少なくともこの場で何を議論するかは明確にしておかなければならないだろう。企業の情報開示を利用する立場から、感覚的には戦略が「目標」と「行動」を含むことは明らかだろう。実際、これらは企業の情報開示でよく見かける。しかし、聞く側からすると一つ欠けているのが、「なぜ、その『行動』が機能するのか」「どのようなロジックで『目標』が達成されるのか」という(会社なりの)説明である。論者によって、「道筋」(琴坂)とか「ストーリー」(楠木健「ストーリーとしての経営戦略」東洋経済新報社 [2010])という要素である。アナリストとしてはそれを説明してくれれば、戦略の実現可能性を確信をもって判断することができる。
有名な例を二つばかり。一つは、ジェフ・ベゾフ氏がアマゾン創業時にレストランの紙ナプキンに描いたと言われている絵である(検索すればいくらでも現物らしきものが出てくる)。この絵は「循環」しているのでどこが正式な始点ということはないが、筆者の解釈では、ネットならではの豊かな品揃え→ユニークな顧客体験→アクセス増→出品者を引きつけ→品揃えの充実という好循環が生じ成長が促進され→規模が拡大による低コスト構造→低価格→さらに顧客体験の充実・・・という「道筋」を示している。もう一つは、マイケル・ポーターの「What Is Strategy?」(Harvard Business Review, NOVEMBER-DECEMBER 1996)という論文に掲載されたイケアのアクティビティ・システムである。これは構成要素が20もあるので全てを網羅して説明はしないが、突き詰めて言うと、モジュール型の家具、低コスト、顧客が自信で選択、限定的な顧客サービスが高次の戦略テーマで、それらが製造しやすさ、組み立てキット、豊富な在庫、大型郊外店、運びやすさ・・・といった緊密に連結した活動群により保証され、実行されているという。ちなみに同論文は「日本企業には滅多に戦略はない(rarely have strategies)」と主張したことで有名で、日本人としては複雑な思いもするのだが、イケア以外にもヴァンガードやサウスウェスト航空のアクティビティ・システムも図示されていて興味深い。要するに、戦略には「行動」を起点に、「こうなって、ああなって、そうなる」から「目標」が達成されるという説明があると、価値創造プロセスへの理解が格段に上がると言えるのではないか。残念ながら、これらのレベルで解像度を上げた経営戦略にはあまりお目にかかっていない。
ここまでが今回の主題だが、敢えてもう一つ「人材版伊藤レポート」(経済産業省 [2020])で有名になった「As is – To be」ギャップの把握にも言及しておきたい。ともすると、日本企業の情報開示は「当社はこんなに凄い!」オーラ全開のことが多い。しかし、敢えて目標達成のための具体的な課題、至らない点、リスク要因とそれらへの打ち手に言及されていると、むしろそれらが戦略上の「改善の余地」=「成長余地」として意識されることがあり得る。これも重要な観点と言えよう。我々の旅では、これで経営戦略は乗り切ったと思う。次は、より重要な戦略の実行と進捗のモニタリングになる。