野村證券 エグセクティブ・エコノミスト 美和 卓
「米ドル不安」が金融市場のテーマとなっている。ブルームバーグ米ドル名目実効為替指数は、25年年初から6月末にかけ10%強下落した。米ドル不安が囁かれる背景には、トランプ関税による世界貿易量縮小と連動した米ドル決済需要の低下懸念、関税の影響による米経済悪化を相殺するための大規模減税・財政拡張策が米国財政や米国債への信認を低下させる可能性、などが指摘されることが多い。後者については、トランプ政権の相互関税発動が具体化した25年4月以降、米ドル実効指数の下落と同時に米国債利回りの上昇が目立ちはじめたことからも、一定の蓋然性を伴って受け止められることが多い。
米ドル不安が金融市場で注目を集める背景の一つは、その帰結が米ドル基軸体制の変質や瓦解に至るのでは、という大きな懸念を伴っているからでもある。金スポット価格が25年上半期中に3割程度上昇している実態を、準備通貨としての米ドルからの資金逃避の結果と解釈する向きもある。
一般には、貿易決済通貨についても、準備通貨、資産についても、米ドルないし米国債を代替できる決定的な選択肢が存在しないことを理由に、米ドル基軸体制は揺るがないとの見方が有力ではある。しかし、関税政策のみならず、外交・安全保障、技術移転、人材・労働移動などあらゆる面で米国が孤立主義的な動きを強めるほど、米ドル離れや米国債離れが生じやすくなる構造にあることは看過できないだろう。世界最大の経済大国であり輸出市場である米国へのアクセスが絶たれるとの懸念が現実のものとなることは、準備資産たる通貨としての米ドルや米国債を保有することの意味や必要性を低下させることにもなりうるからである。
それ以上に懸念されるのは、米トランプ政権が孤立主義的な経済・外交政策を展開する一環として、他国・地域の米ドル、米国債依存を主体的に忌避、拒絶するような動きが生じることであろう。米ドル基軸体制は、米国の通貨政策、金融政策の決定において米国以外の地域の事情への配慮を要求されたり、米ドル保有需要を押し上げることを通じて構造的に米ドルの過大評価を招来したり、といった有形無形のコスト負担を米国に強いている面もある。国際機関や他地域の安全保障に対する米国の過大な貢献やコスト負担を槍玉に挙げてきたトランプ大統領自身やトランプ政権の来歴を踏まえると、米ドル基軸体制のもたらすコストについても、疑問が投げかけられる懸念は皆無とは言い難くなる。米ドル基軸放棄の目に見えるデメリットの一つは、米国債に対する信認や需要の低下を通じた金利上昇であるが、制度変更を通じた国内投資家の需要喚起や、究極にはFRB(連邦準備制度理事会)によるQE(量的金融緩和)再開によって、相殺可能な問題であるとも言える。
米ドル基軸体制は、通貨米ドルの圧倒的な通用度と流動性の高さを背景として、世界全体における米国金融資本市場のシェアの大きさや米系金融機関の競争力を支え、ひいては米国の経済力、国力の有力な源泉ともなっているはずである。米トランプ政権がそれを無視した意思決定や政策判断に至る可能性は低く、仮にトランプ政権自身にそうした志向があるならばそれを押しとどめるような政治力学が米国内から自ずと働きはじめる、と考えるのが自然ではあろう。しかし、現在市場でささやかれる「米ドル不安」の背景の一つとして、トランプ政権が有する従来の米国とは一線を画した独善的、孤立主義的な体質が影響していることは否定できない。米ドル不安が早期に完全払拭されると考えるのも、やや楽観的過ぎるだろう。