野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤

 

2024年9月に船出して、経済産業省が提示した価値協創ガイダンスを頼りに「ステークホルダーに伝わる」価値創造プロセスを辿ってきた。前回の議論の最後に、戦略実行の進捗を測るKPI(重要業績評価指標)設計とダッシュボードの重要性に触れた。今回はその議論を深めて、戦略を「やりきる」ための仕組みと、その効率的な表現を考えたい。ここで注意しなければならないのは、実行を管理するために設計したKPIは戦略実行の「羅針盤」でなければならないということである。筆者のアナリスト時代の経験によれば、KPIがいつの間にか部門や従業員を評価・管理するための「成績表」に変質してしまうことが少なくなかった。小稿では、KPIを「戦略ストーリーが現実世界で機能しているか」を測定・確認するための「航海計器」と捉え、戦略の完遂を担保するツールとすると同時に、ステークホルダーへのコミュニケーション手段となるように設計するように議論を進めていきたい。
 

そのようなKPI、ないし複数のKPIをまとめたダッシュボードはどのようにあるべきか。この旅で得た教訓としては第6回で論じた経営戦略の道筋、すなわち「こうなって、ああなって、そうなる」という因果の連鎖を反映しているべきであろう。戦略が絵に描いた餅に終わらないようにするには、この因果関係(ロジック)を組織全体で共有して観測できるかに懸かっている。この目的のためには、二種類のKPIを区別する必要がある。一つは「結果指標」である。これは売上高、営業利益、市場シェアといった戦略的行動の結果であり。KGIなどと言われることもある。KGIは最終的な目標達成度を示す成績表としては機能するが、日々の行動を導く羅針盤にはなり得ない。結果が出た時点では、既に航路から大きく外れているかも知れないからだ。そこで不可欠になるのがもう一つの「先行指標」である。これにより戦略的な行動が正しく実行されているか、その行動が戦略の道筋の「次」に繋がる正しい順路を辿っているかが分かるのである。
 

例えば、第3回で触れた「製造業からモビリティ・サービスへ」といったビジネスモデル変革を考える。この場合、結果指標はサービス売上比率やサブスクリプション収益だろう。一方、それを駆動するための先行指標はサービスのアクティブユーザー数や顧客一人当たりの利用時間、アプリのダウンロード数などになるはずだ。或いは、第4回で議論したマテリアリティとして「サプライチェーンの強靭化」を特定した企業なら、結果指標は欠品による機会損失額の低減となろう。対して先行指標は重要部品の調達先多様化や、代替部材の認定スピードなどが考えられる。顧客対応力の強化を目指す戦略でも同様である。結果指標が解約率の低下や生涯顧客価値(LTV)の向上であるならば、その手前に顧客推奨度(NPS)の変化や初回コンタクトでの問題解決率といった先行指標が存在する。説得力のある戦略実行とはこれらの、先行指標が動けば、やがて結果指標も動くはずだという「戦略のロジック(仮説)」をダッシュボード上に明確に可視化することに他ならない。
 

どれだけ優れた航海計器(KPIダッシュボード)を設計しても、それを見てきちんと舵を切れなければ船は正しい航路上を進めない。我々が目指す戦略を「やりきる」ための仕組みとは、計画を固定して厳格に守ることではなく、目的地に向かって環境の変化や実行から得たれる学びに合せて適応し続けることである。そのために必要なのが、先行指標を基にした高頻度なステークホルダーとの対話の場である。先行指標の変化を捉え迅速に軌道修正する短い周期でのリズミカルな対話が不可欠となる。ここで強調したいのは、対話の目的は達成/未達成の犯人捜しではない。目的は学習である。先行指標が想定通りになっていない時、操舵室で問うべきは「誰のせいか」ではなく、「どちらに舵を切るか」「(目的地までの)航路を変更するのか」―この問いこそが、戦略を実行可能なものとする。
 

この仮説(戦略ロジック)→実行(行動)→測定(KPI)→学習(対話)→適応(軌道修正)という一連のサイクルこそが、戦略を「やりきる」ための核心的な機構である。企業のステークホルダー、特に外部にいて長期的視座を持つ投資家は、完璧で揺るぎない計画を求めているわけではない。むしろ、彼らが信頼するのは不確実な環境の中で自社の現在位置と課題を誠実に認識し、データ(KPI)に基づいて合理的に軌道修正できる学習能力と、それを支える実行体制である。この学習と軌道修正のサイクルが組織内で正しく機能しているかを監督し、戦略と企業理念の整合性を担保し、物語全体に説明責任を負う仕組みがガバナンスである。次回は、いよいよ旅の終着点であるガバナンスについて考察を進めたい。