野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤

 

2024年秋に出発した「企業価値創造」を紐解く旅も前回無事に目的地に到着し、今回改めて企業価値紀行を記してした最終回となる。経済産業省の価値協創ガイダンスを海図代わりに、企業理念(価値観)、ビジネスモデル、マテリアリティ、経営戦略、人的資本、KPI、そしてガバナンスと一連のプロセスを辿ってきた。これら一連の価値創造ストーリーは、統合報告書など通じて一義的には株主や投資家に向けて語られるものとされている。しかし、投資家向けに美辞麗句を並べた立派なストーリーブックが完成したところで、企業価値創造は実現しない。物語は語られるだけでなく、実行されて初めて価値を生むのである。

 

では、企業価値創造を絵に描いた餅に終わらせないためには何が必要なのか。それは従業員をはじめ、バリューチェーンを構成する取引先など、あらゆるステークホルダーがその物語を「自分ごと」として理解し、日々の行動に落とし込むことである。例えば、第3回で触れた「ドリルを買いに来た人が欲しいのはドリルではなく『穴』」、つまり顧客価値提供というビジネスモデルの根幹が理解されていなければならない。現場の営業担当者が自社のミッションを「ドリル(モノ)を売って売上目標を達成すること」だと勘違いしていれば、不毛な値引き競争に陥りかねない。しかし、企業理念やビジネスモデルを「自分ごと」として理解し、「顧客の課題解決(穴をあけること)」にフォーカスしていれば、結果として得意客の拡大や、生涯顧客価値の向上に繋がり得る。また、第8回で議論した先行指標(KPI)も同様だ。「ROE向上」や「営業利益達成」といった結果指標(KGI)ばかりを叫んでも現場は動けない。ここで、「顧客推奨度(NPS)の向上」といった先行指標に落とし込まれていれば、現場では工夫の余地が生まれるし、従業員は自分の日々の行動が企業価値向上に繋がっていると実感できる。従業員一人ひとりが日々の業務の中で価値創造のメカニズムを自分ごと化することこそが、ストーリーに詩を通わせることになるのである。

 

ステークホルダーの共感と実践によって生み出された利益は、物語の終着点ではない。企業価値が持続的に創造されるための条件は、生み出された資金を「資本コストを超える収益率が見込める投資機会」へ継続的に再投資し続けることである。今日、その主戦場は従来の設備投資から、人材育成、技術開発、ブランド力の強化といった無形資産へと移っている。会計帳簿上は当期の利益を押し下げる費用と見做されても、経営陣や従業員、そして投資家の目には、それが将来のキャッシュフローを創出するためのエンジンだと映っていなければならない。現場の従業員が行う日々の工夫・改善や顧客対応力の強化にむけた教育投資が、結果的に長期的な競争優位を築き、資本コストを上回るリターンとなって返ってくる。生み出されたキャッシュフローに安住せず、再投資のサイクルを回し続ける姿勢こそが、企業の持続性(サステナビリティ)を担保するといえる。

 

しかし、事業環境が激変する不確実な世界において、一度作り上げた価値創造ストーリーは不変の金科玉条ではない。環境の変化に応じて、予め定めた航測機器(KPI)を基に現在位置を測定し、必要に応じて柔軟に学習と適応(軌道修正)を行う必要がある。ここで重要になるのが投資家との「実質的な」対話である。投資家は単に過去の業績という成績表を評価しているのではない。企業が直面するリスクや機会にどう対応し、中長期的なストーリーをどう進化させていくかというリジリエンス(強靭性)、超過リターンを生む投資機会の探索力を重視している。対話を通じて得られた示唆を基に、事業戦略や資本配分を見直し、物語をアップデートしていく姿勢が資本市場からの信頼を生むのである。こうした一連のサイクル(実践、投資、学習、適応)が独り善がりな「攻め過ぎ(過大投資)」や「守り過ぎ(過少投資)」に陥らないよう、規律と客観性を確保するのがコーポレート・ガバナンスである。資本コストという客観的な規律を用いて投資をモニタリングするフィードバックが機能しているからこそ、継続的な再投資が正当化される。

 

企業価値創造の物語とは、企業が一方的に語り聞かせるものではない。従業員が日々の業務で主体的に実践し、バリューチェーンの上下流とも共有し、投資家が対話を通じて磨き上げに参加することで初めて「協創」される。すべてのステークホルダーは、それぞれの立場で「企業価値創造の物語」を共に紡いでいくこと。それが、豊かな社会と持続的な企業価値創造を両立させる確かな道標となるであろう。