創業者「野村徳七」 15.「野村銀行」の創立

大阪野村銀行設立当初の本店

先の欧米外遊の際のニューヨーク視察で、証券取引には金融機関との緊密な結びつきが必要であることを痛感していた徳七は、日本でもそれを実現したいと心に期すものがあったが、大戦中に蓄積した資金は、その理想実現の機をもたらした。新たに「野村銀行」を設立することによって、一歩進んで、真の証券業者としての態様を整えるとともに、銀行を中心に、各種の事業を興し、新機軸を開こうとしたのである。

このような理想と決意のもとに、野村家および関係者は、内議決定の後、大正6年12月27日、大阪府庁へ銀行設立認可内伺書を提出、翌7年5月25日、正式に大蔵省へ銀行業務、担保付社債信託業の認可申請書を提出した。この申請は、同年6月20日認可となり、ここに「大阪野村銀行」が創立された。行名に特に「大阪」の字を付したのは、他に同名の銀行があったためである。

銀行設立認可とあわせて、担保付社債信託業の兼営も認可された。これに先立って徳七は、調査部長の橋本喜作をアメリカに派遣し、信託業務の調査をさせていたが、銀行の創立にあたり、その業務の一つとして、信託業を兼営しようとした。これは徳七のかねてからの念願でもあった。日本の信託業の歴史は浅く、その事業は微々たるものであったが、徳七は率先して、この業務を取り上げたのである。当初、「大阪野村銀行」の資本金は1,000万円(全額払込済)で、大阪市東区安土町2の61の所在地(当時)で、大正7年8月1日営業を開始した。