創業者「野村徳七」 16.証券部の設置

証券部設立の頃の野村銀行

片岡音吾(野村證券初代社長)が「日本興業銀行」から招かれて、「大阪野村銀行」の取締役兼支配人に就任した。銀行設立にあたり、日本銀行の水町副総裁、興業銀行の土方総裁などから、公債取扱いを要請されていたが、大正9年、井上準之介が再度日銀総裁に就任するとともに、国債市場の復興をめざして9月、10月に、東西にそれぞれ国債市場が開設され、大阪国債取引員組合が新設された。

「大阪野村銀行」は、この機運に乗じて証券部を設置した。これは、銀行として証券部という名称を用いた初のケースであった。「大阪野村銀行」がこのように、特色を打ちだしたのは、大小の先発銀行群と同じような営業方針では、経営が成立たない危惧があったためでもあったが、証券金融の整備によって証券市場の発達と証券の普及化、さらに中小企業への産業資金の供給といった業務を、その使命として、打ち出したといえよう。

北浜野村ビル(大正10年から)

証券部の設立後、公社債業務は、次第に忙しくなった。これは、第一次大戦後、公社債市場が拡大され、証券部の設置された大正9年から昭和6年にいたるまでの長い不況の間に、公社債の発行がさかんで、依然増加が続いたからである。また外貨債の発行、政府の預金部の公社債引受け、それに新規発行以外に、公社債の借換発行が行われ、公社債市場の拡大に一層拍車をかけた。証券部設立後、公社債市場の取扱い量は増大し、14年下期には、売買高は1億数千万円に達し、収益力も向上した。