創業者「野村徳七」 3.両替商の没落

両替商の看板

徳松こと初代徳七が大弥に入店して11年目、22才(明治4年)のときに、一身上の重大変化が二つあった。

ひとつは、この年の2月に、大阪屋弥兵衛の養子となったこと。もうひとつは、8月に主人の弥兵衛が死んだことである。さらに翌5年8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。主人夫婦の死は、店の没落を、一層早めることになった。

そうでなくても武家社会に依存していた両替店は、明治維新の改革によって、いずれは没落の運命にあった。維新後の明治2年には、東京、大阪に為替会社が設立され、5年の「国立銀行条令」によって国立銀行が設立され、弊制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下した。大弥の両替店も例外ではなかった。未亡人の死後、後継当主の弥太郎は、ついに店を閉鎖することにした。ここに、大弥両替店は没落したが、初代徳七は最後まで踏みとどまり、同じ店で働いていた山内多幾(後の初代徳七夫人)とともに、力をあわせて店の整理に努力した。