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日本のゴルフは神戸から

イギリス人が日本にゴルフをもたらす

日本にゴルフを伝えたのは、神戸港が開港した1868年にイギリスから来日したアーサー・ヘスケス・グルーム氏。日本人と結婚後に六甲山に別荘を建て、そこでイギリス人の仲間とゴルフコースを造る話になった、と言われています。1898年に開始した工事はほぼ人力で、1901年に最初の4ホールが完成しました。もともとは仲間内でプレーするためのコースだったのが、噂が広まり来場者が増えたため、1903年に9ホールに増設。同年「神戸ゴルフ倶楽部」を創立すると、その翌年には18ホールへとさらに拡張しました。メンバーは135人でほとんどがイギリス人だったそうです。
ちなみに当時グルーム氏はゴルフ未経験者。仲間の話に興味を示さずコースを作っていなかったら、日本のゴルフ史のスタートは大幅に遅れていたかもしれません。

冬は雪でゴルフができない…と2コース目ができ、日本初のプロゴルファーも誕生

六甲山頂にある神戸ゴルフ倶楽部は降雪のため冬季はクローズとなります。そこで1904年、グルーム氏と親交のあったイギリス人のウィリアム・ジョン・ロビンソン氏が、1年を通しプレーができるようにと、海に近い現在の神戸市東灘区に国内2つ目となるゴルフ場「横屋ゴルフ・アソシエーション」を設立しました。この6ホールのコースは農家を営む福井藤太郎氏宅に隣接していたことから、藤太郎氏の息子で当時12歳だった覚治氏はロビンソン氏のキャディーを務めるようになります。めきめきとゴルフの腕を上げた覚治氏は、1920年に舞子カンツリー倶楽部(兵庫)が創設された際にキャディマスター兼プロとして採用され、日本人のプロゴルファー第1号となりました。

第1回の「日本プロゴルフ選手権」は賞金なし…

日本初のプロゴルフトーナメント「日本プロゴルフ選手権」は1926年に茨木カントリークラブ(大阪)で開催されました。1日で36ホールを回る大会の参加者は6人。福井覚治氏と、開催コース所属の宮本留吉氏によりプレーオフが行われ、宮本氏が初代チャンピオンとなりました。プロトーナメントといってもこの大会に賞金はなし。純銀のカップをはめこんだ額が賞品でした。
一方、アマチュアも参加が可能で、その年のゴルファー日本一決める「日本オープン選手権」は、1927年に第1回大会が開催されました。アマチュア12人、プロ5人が参加し、2日間・72ホール(各日36ホール)で争いました。初日を終えて首位から20打以上多い選手は2日目に進出できず、最終日に残ったのは7人。2位に10打差をつけ勝利したのは赤星六郎氏で、現在に至るまで唯一のアマチュア優勝者です。ただ当時はアマチュアがプロを育てていたような時代で、この優勝は当然という捉えられかたもしていたそうです。

隆盛の女子ゴルフのスタートは昭和になってから。

男子に遅れること40年、日本に初めて「女子プロゴルファー」が誕生したのは1967年でした。日本プロゴルフ協会内に女子部が創設され、樋口久子さんら26人がプロテストに合格。同年「日本プロゴルフ協会女子部創立記念競技」が行われると、翌年には「日本女子プロゴルフ選手権」と、「日本女子オープン」の前身である「TBS女子オープン」が開催されました。ちなみにプロテストを開催したのは「日本プロゴルフ協会」の女子部。一方で、「全日本ゴルフ場女子従業員競技大会」を主催したのは現在のJLPGAとは同名で別組織の「日本女子プロゴルフ協会」。この二つの団体は、前者が後者を吸収する形で1968年に一本化され、プロテストに合格した26人に加えて「日本女子プロゴルフ協会」で活動していた15人が「日本の女子プロゴルフ1期生」となりました。
なお、これより以前からアマチュアゴルフは行われていましたが、多くは上流階級によるものだったそう。1926年に始まった当時唯一の女子競技「東西対抗戦」は戦時色が強くなると1937年に廃止され、1953年になってようやく「全日本女子ゴルフ大会」(現在の日本女子アマチュア選手権)が開催されるようになりました。

文:森伊知郎

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