インフレ時代の到来か

巻頭言2008年夏号

野村證券金融経済研究所 経営役・チーフリサーチオフィサー 海津 政信

インフレかデフレか、企業経営にとっても、個人の資産運用にとっても、どちらの世界を見込むかで、かなり違う戦略が要求される。私は、2002年10月の財界観測復刊号に「中国の産業競争力」を書いて以降、中国の経済発展は、中国による資源・エネルギーの大量調達を通じ、川上インフレを起こす一方、農村部の余剰労働力を背景とした繊維製品、電子機器などの消費財の安値輸出を通じ、川下分野にはデフレ的に働く。この川上インフレ、川下デフレを基本的な物価観としてきた。

しかし、最近は川下分野でも物価が上昇し、全体として物価が緩やかに上がる可能性が出てきたと考えている。理由は、以下の三点である。

まず、第一は中国の余剰労働力の減少である。最近の中国の経済学者の研究では、2010年を待たずに農村部の余剰労働力はかなり減り、賃金が上昇し始めるとの予想が増えている。労働経済学で言う「ルイスの転換点」が近いという分析である。こうなると、かつてほど安い価格で、繊維製品や電子機器などを供給できなくなり、デフレ圧力が緩和する可能性が出てくる。

実際、わが国の消費者物価統計を見ても、性能の向上に見合うだけ価格が下がる電子機器は、中国要因以外の技術革新要素もあり値下がり傾向が続いているが、繊維製品の価格下落は終了している。

第二は食料品価格の上昇である。最近の消費者物価指数の上昇上位を見ると、食パン、ドーナツ、マヨネーズなど、食料品が目白押しである。中固などの新興国の生活水準が上がり、人々が肉類を多く食べるようになり、家畜飼料の需要増から、とうもろこし、小麦など穀物市況が上がり、これが食料品の値上がりに繋がってきている。

第三は日本経済の需給ギャップの縮小と消費者物価の基調部分の上昇傾向である。日本経済の需給ギャップは不況がひどかった2001年末には5%もの供給超過であったが、今日ほぼ零まで戻り、目先若干軟化するものの、2009、2010年にはさらに改善が期待される。つれて、基調的な消費者物価は前年比1%近くまで上昇しよう。原油価格の中期的な上昇も加えると、消費者物価が1%を越えて上昇する可能性が出てきていると言える。

それでは、インフレ時代の到来に、企業経営はどう備えるべきなのか。まず、第一に長期金利の上昇への備えがあろう。10年国債利回りは、世界経済の回復がはっきりする2009年後半には、2%台半ばまで上昇し、さらに2010年には3%程度まで上がっていく公算がある。

第二に、賃金上昇への備えがあろう。団塊世代の大量退職であと1年程度は、賃金の抑制傾向は維持できようが、その先は、労働力不足も加わり、賃金は緩やかな上昇に向かおう。新興国での売上げ、利益成長の確保と並び国内での再編強化による企業体質の改善が欠かせない。

一方、個人はどう備えるべきか。第一は預貯金偏重の資産運用を株式、投資信託などのインフレに強い投資商品を含むバランス運用に変えていくことだろう。第二は住宅建設の予定がある場合は、長期金利が本格的に上がる前に、住宅ローン借入れを検討する必要があろう。

もちろん、インフレ時代の到来と言っても、ハイパーインフレがやってくる訳ではない。デフレからの脱却であり、緩やかなインフレ時代の到来と言える。賃金の上昇が弱いなかでの物価上昇は、当面個人消費の足かせになりかねないが、いずれ賃金の上昇が見合ってくれば、良いインフレになっていくと期待される。

このことは、当然ながら企業や個人だけの話では済まない。景気と物価の適正な管理という中央銀行本来の役割が、日本銀行に強く求められるようになることも論を待たないだろう。

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