あるべきESG投資の姿とは
編集者の目2018年6月18日
野村證券金融経済研究所 経営役所長 許斐 潤
ESG投資(環境、社会、企業統治に配慮している企業を重視する投資の考え方)が急速に存在感を高めている。グローバルには、2006年に国連が機関投資家に対してESGを投資プロセスに組み入れる「責任投資原則」(PRI)を提唱したことが契機になった。日本では、2015年に年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)がPRIに署名したことから、投資運用業界で急速にESGへの関心が高まった。2018年4月時点で、グローバルに1,961の年金基金や運用会社などがPRIに署名しており、全体の運用資産額は82兆ドル(8,900兆円超)に達している。
国内でも大手運用機関のほとんどは、ESG、責任投資、ガバナンス、エンゲージメントなどを冠した部署を設置し、専門のファンドマネジャーやアナリストを配している。野村證券の調査部門でも2017年、18年と産業横断的に日本企業のESGの取り組みに関した調査を実施しているが、専任者をおいて実際にESGをビジネスに組み込んでいるという点では資産運用業界の方が一歩も二歩も進んでいるといえよう。さらに2017年頃から、主要上場企業のうち先進的な会社がESG説明会のようなテーマをESGに絞り込んだイベントを開催し始めた。こうした動きは今後も加速こそすれ、減速していくことはないだろう。
ここで筆者が一点、とても気になっていることがある。メディアなどでの取り上げ方などをみても、ESG投資を、業績予測など財務情報中心の従来の投資の考え方とは一線を画す、全く新しいものの見方であるかのように取り上げているケースが多いように見受けるのである。果たして、それでよいのであろうか。そこには、ESG投資は古い考え方から切り離された全く別の投資カテゴリーであり、ESG投資の取り組みには特別な知見が必要であるといった意識が見え隠れしていないだろうか。確かに、ESG投資には従来とは違う知識・技術が活用されている面もあるが、こうした意識が先鋭化すると、従来主流の財務情報重視派側から見て「あれは別物だから」「それはESGムラの人達に任せておきましょ」というような心の壁が形成され兼ねない。
そもそも、企業の社会的責任とは、「本業を通じた社会課題への貢献」であるはずである。本業とは別の文脈で「山に木を植えています」とか「学校に寄付しています」という話ではないはずである。そこで、本業のあり方を突き詰めていくことが重要となる。本業を定義、記述する道具立てとしてビジネスモデルという概念がある。筆者は今から20年ほど前に日本でインターネットがビジネスとして脚光を浴び始めた頃に、盛んにビジネスモデルという用語が飛び交っていたことを思い出す。この分野の研究の泰斗である根来龍之・早稲田大学IT戦略研究所所長によれば、ビジネスモデルとは、(1)戦略モデル(顧客に対して自社が提供するものは何か、即ち顧客、機能、製品、魅力、資源)、(2)オペレーションモデル(戦略を支えるオペレーションの基本構造)、(3)収益モデル(事業活動からの対価を誰からどう得るか)の3つの要素からなるという(「ネットビジネスの経営戦略」[1999]、日科技連)。余談だが、ネットバブル当時、ビジネスモデルとは単に課金システムのことであるかのように扱われていたように記憶しているが、上記定義に照らせば収益モデルに当たるものをビジネスモデルの全体像かのように見做して、もてはやしていたことになる。
さて、本筋に話を戻そう。ビジネスモデルの3つの構成要素のうち、当然、核となるのは戦略モデル、すなわち、誰に、どんな方法で、どんな価値を提供し、それは同業他社と比べて何が優れているのか、ということである。ここで「価値」という以上、何かポジティブなイメージ、社会的に意味のあることが想定されていることに異論はなかろう。もちろん、アルコール類、煙草、武器、賭博…などに見られるように、「価値」の意味合いは時代や文化的背景で違っていることはあり得るし、遷移も遂げてきたであろう。しかし、一般的に言って「価値の提供」は顧客にとっての何らかの「課題解決」であるし、それが一定以上の規模で集合的に実施されれば正に「社会的課題の解決」であると言ってよい。
つまり、自社のビジネスモデルをきちん定義し、実践することが、当該企業が提供する「社会的課題の解決」であり、その企業の「社会的責任」ということなのである。この「社会的責任」をESGと読み替えると、それは道の向こうのムラだけのことではなく、全企業の基本的な存在理由に関することである。また、それは全アナリストが今日から真剣に立ち向かわなければならない企業評価の一丁目一番地であると考えなければならない。