安定株主の動的平衡

編集者の目2019年2月7日

野村證券金融経済研究所 経営役所長 許斐 潤

30年近く前に駆け出しの証券アナリストだった頃、担当していた企業の財務担当役員から、「安定株主って、どういう意味か分かっていますか」という問い掛けを受けた。「短期間で売買せずに、長期間株式を保有する株主ではないでしょうか。経営者、会社関係者、取引先など・・・」と紋切り型の返答をしたところ、「そうじゃありません。一度買ったら決して売らないという態度は、『安定』ではなく、『固定』ですよ。安定株主というのは、当社の株をずっと気にしていてくれて、株価が下がったら買い、上がりすぎたら売ってくれる人のことです。」との卓見を披露して頂いた。当時、なるほど!と腑に落ちたと同時に、少し驚いたことを覚えている。当該企業は売上高や資産の規模こそ大きくはないものの、ある旧財閥グループに所属しており、件の財務担当役員もその財閥の中核銀行出身の方だったからである。当時(1990年代)には株式持ち合いの大本尊であった旧財閥系の、しかも銀行出身の役員からそんな話を聞くとは夢にも思わなかったのである。

「動的平衡」という言葉がある。青山学院大学の生物学者である福岡伸一教授の著作で有名になったので、ご存知の方も多かろうが、元々は化学や物理学の上での概念だそうだ。生物学の文脈でいえば、「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けられているのである。」(福岡伸一「動的平衡」[2009])。もう少し具体的に言うと、人間のカラダは約60兆個の細胞で出来ていると言われてきた(最近では37兆個説もあるようだが、いずれにせよ膨大な数である)。このうち、神経細胞や心筋細胞は初期増殖の後は分裂しない、つまり入れ替わらずにずっと同じ細胞が存在し続けているらしい。しかし、それ以外の部位では、例えば皮膚は28日に一度、胃腸は40日に一度、血液は127日に一度、骨や肝臓、膵臓は200日に一度、すべての細胞が入れ替わっている。さらに、それらの細胞も原子からできている。浅学にして正式な学問上の知識は持ち合わせていないのだが、関連しそうなトピックをインターネットで検索すると、ガイ・マーチの「生命の7つの謎」([1986])という著作に、「・・・平均的な人間ではその人体を構成する 10の28乗 個の原子の 98% ほどが 1 年間で置き換わる・・・」との記述があることが分かった。ちなみに、10の28乗は「穣」という・・・億、兆、京、垓、𥝱の次の単位である。

このように、一人の人間を構成する細胞や原子は、どんどん入れ替わっているのに、一人の人間としてのカラダの特徴(身長、体重、体格など)や人格、意識、記憶は、不変の一つのアイデンティティを保ったままである。これが、「動的平衡」である。900年近く前に鴨長明は、そもそも世の中というものがそういうものだと喝破していた。いわく「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(方丈記<國文大觀>第一段)。

冒頭、若輩の筆者に響いたのは、正にこの境地であった。つまり、長期投資家はある企業の理念や経営哲学、長期的な見通しを手掛かりに当該企業の株式に投資し、株価が理念や見通しを織り込んだ水準を超えて上がれば、躊躇なく売る。株を売るのは当該企業の評価を下げたのではなく、株価があるべき姿を超えて上がったからである。しかし、マクロ要因や市場要因など企業に責任のない理由で株価が下がり、しかもその企業の理念、哲学、見通しが変わっていないとしたら、この場合もためらいなく再投資する。こうした長期投資家の営みが集積されて、その企業の株価は理念、哲学、見通しを織り込んだ適切な水準に収斂するという訳である。株価が上がっても下がっても持ちっ放しでは、株価が適正価格に収斂するダイナミズムは働かない。一方で、その時々の事業環境や短期的な業績見通しによって、株価が振れるのは仕方ない面もあろう。他方で、このような長期投資家の存在が株式市場の価格発見機能を担保していると言えよう。企業としても上述のような長期投資家、真の安定株主を惹きつけるために、企業理念、経営哲学、長期見通し(ビジョン)を、一貫性があって理解しやすい形で発信し、しかも実際の企業運営がそうした理念に沿っていることを実績として示していく必要があるのではないか。

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