見えない敵との文明の命運を賭けた戦い

編集者の目2020年4月8日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

4月7日に新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令された。少し大げさに言えば、我々と見えないウイルスとの、文明の命運を賭けた戦いが正念場を迎えることになる。これに先立つ3月26日、英国インペリアル・カレッジは「COVID-19の世界的衝撃と緩和・抑制戦略」というレポートを発表した(The Global Impact of COVID-19 and Strategies for Mitigation and Suppression, the Imperial College COVID-19 Response Team, 26 March 2020)。このレポートは、国連などの統計データに基づいて約200か国の人口動態(年齢構成など)、経済状況、年齢階層別のウイルス感染率を整理し、各国別の医療キャパシティも加味した上で、ウイルス禍の負担を試算している。レポートは、調査対象国を低所得国(LIs)、低中所得国(LMICs)、高中所得国(HMICs)、高所得国(HICs)の4グループに分けた試算結果を掲載した。このレポートの最も衝撃的な予測は、「何の対策も打たれなければ、新型コロナウイルスに全世界で70億人(地球上のほぼ全ての人)が感染し、(中略)ウイルスによる死者は4,000万人に達する可能性がある。」としている点である。1918年から1920年に流行したスペイン風邪は全世界で患者数約6億人、死亡者数2,000万~4,000万人とされているので、医療技術が飛躍的に発展したはずの100年後に同レベルの災禍に見舞われるかも知れない、ということを示している。

もちろん、インペリアル・カレッジのレポートは不吉な予言をするためだけに執筆されたのではない。高齢者の他者との接触を通常より60~75%と大幅に減らすなど、社会的距離拡大政策など適切な手立てを遅滞なく実施すれば、最悪ケースと比較して3,000万人以上の命が救われるという。我が国の緊急事態宣言も、経済的損失は事後的に補償する前提でまずは強力な社会的距離拡大政策を実施するということである。

ところで、社会的距離政策は感染抑止にどのくらいの効果があり得るのだろうか。感染症の流行・終息過程を記述する理論に、SIRモデルがある。モデルそのものは微分方程式体系で説明されるが、ここでは技術的な詳細に立ち入ることが目的ではないので、俄か仕込みの知識でエッセンスを紹介したい。SIRモデルで表される感染・回復の過程は次のようなものである。(1)未感染者は感染者と接触することにより、ある比率で感染する、(2)感染者はある期間を経て回復者となる。ここで、重要な前提が(3)回復者には免疫があるので再び感染することはない、ということである。或る人が未感染→感染→回復と遷移する過程を経て社会全体に回復者(免疫あり)の数が増えてくると、(3)の仮定によって感染予備軍(未感染者)の人数が社会全体で減ってくる。新規感染者数は当初急激に増加しても、未感染者数が減ってくると増勢が鈍化し、やがて減少に転じる。他方、新規回復者数は回復者数が増えてくると増加するので、差し引きで感染者数はある時点を超えると減少に転じる。つまり感染者数をグラフにすると、時間の経過とともに釣り鐘型(増加→急増加→ピーク→減少→減少減速→終息)の形状となり、感染病の流行は必ず終息すると言える。問題は釣り鐘のピークをその社会の医療キャパシティ以下に抑えなければ、医療崩壊が生じて感染症が終息する以前に死者数が許容できない水準に達してしまう、ということだ。

そこで、釣り鐘のピークを低くする施策が必要となる。ところで、上記(1)の「ある比率」を決めるのは、或る人の1日当たりの他者と接触回数と、接触した時に感染する確率(ウイルスそのものの感染力の強さや、個々人の感染防止手段に依存)によって決まる。接触回数と感染防止手段をまとめて、その社会の衛生意識の高さといっても差し支えないだろう。詳細な計算過程は割愛するが、ある一定の条件の下で1日当たりの他者との接触回数を30%削減するとさせると、感染者数のピーク水準は約半減(その代わり、感染が完全に終息するまでの期間は1.5倍)になる。接触回数を半減させると、感染者数のピークは何と6分の1(終息までの期間は2.4倍)になる。どうしてこのような劇的な結果を生むかというと(少しだけ数学的な議論になることをご容赦頂きたい)、モデルの中で感染者数は「感染率-回復率」に依存しているが、回復率を一定として感染率を動かすと「感染率-回復率」は感染率を動かした以上に大きく変動するからである。仮に流行のごく初期から緊急事態宣言が想定するように接触回数を80%減にできていたとすると、伝染病流行の条件である「感染率>回復率」が成り立たなくなるので、そもそも感染者数は増加しないで初期値(海外などから感染源を持ち込んだ人数)から減少の一途を辿る計算となる。

以上の考察の含意は、第一に感染は必ず終息するから希望があるということである。第二に、社会的距離政策は実効があるということである。緊急事態宣言が発令されても、外出や生活必需財・サービス以外の営業は自粛要請にとどまる。メディアの論調や街頭インタビューなどで「要請では強制力がない」といった発言を耳にすることがあるが、自分や家族、社会を守るという当事者意識に欠けた態度と言わざるを得ない。本稿のタイトルを「文明の命運を賭けた」としたのはこのことである。自粛生活が楽ではないのは確かだし、経済的には甚大な影響があるだろう。それでも、今から数週間~数カ月は日本人の文明人としての公共心の真価が問われているのである。

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