アダム・スミス「道徳感情論」と競争

編集者の目2020年8月17日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

在宅勤務でより主体的、計画的に時間管理ができるようになったので、日々の雑事に追われている間は適わなかった骨太のインプットをしようと、アダム・スミスの「道徳感情論」に挑戦した。岩波文庫版上巻450ページ、下巻472ぺージ、日経BP社版754ページに、2冊ばかりの解説書を読んだので、併せて2,000ページを超える大読み物となった。特に岩波文庫版は1973年の筑摩書房版が下敷きとなっているので、翻訳の調子がやや古めかしいのと厳密な研究者が事細かに訳注を挿入していて文脈が汲み取りづらく、かなり難解であった。しかし、社会に秩序や繁栄をもたらす人間心理のメカニズムの分析は、後の「国富論」における有名な「見えざる手」の議論に通じるところもあり、大変読み応えがあり、有意義な体験となった。

そもそも、アダム・スミスを繙こうと思った背景は、昨年来のシェアホルダー資本主義(株主至上主義)からステークホルダー資本主義への移行を説いた議論に端を発する。その議論では往々にしてシェアホルダー資本主義の理論的支柱として、「企業の社会的責任とは株主のために利益を追求すること」としたミルトン・フリードマンと並んで、上述の「見えざる手」の議論を援用してスミスが自由放任主義の大本尊に祭り上げられている。しかし、遡ること40年、大学の経済学史の講義で、グラスゴー大学の道徳哲学教授であったアダム・スミスは「利己心」より「利他心」を重視して理論を構築した、と習ったことが妙に印象に残っていて、それと自由放任主義の守護神というレッテルがどうもしっくりこなかった。当時は、学部学生向けの教科書に試験対策で線を引いて勉強した気になっていたが、この際、翻訳ではあるが原典に当たってスミスの真意は何だったのか探ってみようと考えたのである。なお、シェアホルダー主義/ステークホルダー主義に関する筆者の考えは、後日、稿を改めて整理したい。

この僅かなスペースでスミス思想の全容を伝えることはできないし、本欄はそれが目的の文章でもない。ここでの議論に必要な部分だけ掻い摘んで記すと、人間は他人からの称賛を喜び、非難を避けようとする。他方、他人からはその人の意図は見えずに、行為の結果だけで評価することになるのだが、結果は意図だけでなく偶然の要素の影響も受ける。つまり、意図せぬ首尾/不首尾が他人からの評価の対象となるのだが、当人としては、それでは当人の真の姿を評価されているという気にはならないし、見掛けの評価だけを追求するような小さな存在に陥ってしまう。そこで、公平な観察者(スミスはこれを impartial spectator という)の視点を自分自身の中に備え、その観察者が非難するような行為は避け、称賛するような行為を推進しようとする。この行動基準が「一般的諸規則」であり、社会の構成員がそれぞれ一般的諸規則に沿って行動することで、秩序だった住みやすい社会が成立する。さらに、「行動についての一般的諸規則への配慮は、本来、義務の感覚と呼ばれるものであり、人間生活において最大限の重要性を持つ原理」(岩波文庫版「道徳感情論」上巻336ページ)であり、利己心や自愛心は義務の感覚の下に制御される。つまり、抑制されない利己心が野放しにされてよいという発想はスミス思想にはないのである。「自然は…我々の自愛心の妄想にまったく委ねてはおかなかった。」(同328ページ)。

これですっきりした。40年前に妙に強く残った印象が正しかった。さらに、スミスは我々が現在直面している問題にも通じる重要な指摘をしている。「富と名誉と出世をめざす競争において…できる限り力走していいし、あらゆる神経、あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし、…誰かを押しのけるか、投げ倒すならば…フェア・プレイの侵犯であって、彼ら(公平な観察者)が許し得ないことなのである。」(同217~218ページ)。競争がフェア・プレイの精神に則らないならば、社会の秩序は成立しない。秩序のない社会では「見えざる手」は機能せず、繁栄も実現されない。確かに、スミスは「国富論」において、公共の利益を推進しようとは意図していない個人の行動の集積が、「見えざる手」に導かれてそれぞれは意図していなかった社会の利益を達成するとしているが、そのための条件としてフェア・プレイの精神がある。この「フェア」にはさまざまな含意があろうが、上の引用に準えて言えば、「自分のこと」ばかりにかまけて(ある目的のために)「他人の足を引っ張」らないということである。現代の課題に即して言い換えると、目的は「株主の利益」であっても「他の利害関係者の不利益」が前提になっているようでは持続性はない、シェアホルダー主義であってもステークホルダーへの配慮は欠かせない、ということではないだろうか。

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