「損得勘定」としての気候変動対策

編集者の目2021年8月12日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

2021年5月26日の米エクソンモービル社(以下エクソン)の株主総会で小さなヘッジファンドの推薦していた取締役候補4名の内3名が選任されたことは、環境問題にさほど敏感とは思われていなかった米国市場や石油・ガス業界に少なからずショックを与えた。時を同じくして、オランダの裁判所が英蘭ロイヤル・ダッチ・シェル社(以下シェル)に温暖化ガスの大幅削減を求める判決を下したこともあって、日本でのメディアは「石油メジャーに脱炭素の圧力」(5月28日付日本経済新聞)などと同じ文脈上の出来事として報じた。シェルのケースは原告がフレンズ・オブ・アースという国際環境NGOで、確かに「石油会社vs環境団体」という構図で捉えられる。しかし、エクソンのケースは詳しく見ると状況が少し違う。

総会に株主提案したヘッジファンドのエンジン・ナンバーワンの投資家向けプレゼンテーション「Reenergize ExxonMobil~エクソンモービルを再活性化する」(reenergizexom.com)の内容を要約すると、「エクソンモービルは数年に亙り、業界でも最も積極的に(時代遅れの)石油ガス生産拡大に投資してきた。その結果、株価パフォーマンスは同業他社の大きくアンダーパフォームしており、株主価値を破壊してきた。長期的企業価値創造のために取締役会構成、長期戦略、資本政策、株主価値と整合的な動因などの改革が必要だ。」となる。同社の推薦で選任された取締役も、日本のメディアでは「環境派」と紹介されていたが、実際には石油精製会社の元社長、再生可能エネルギー会社の副社長、エネルギー業界を専門とするベンチャーキャピタリストなど、言わば石油・ガス業界の専門家であり、業界を巡る長期的現実に沿って株主価値を創造する役回りが期待されている。エクソンモービル株の僅か0.02%しか保有していなかったエンジン・ナンバーワンが、他の大株主の賛同を得たのも当然と言えそうだ。気候変動対策は、理想や正義を超えて損得勘定として正当化されるようになってきたということだ。

8月9日に発表された気候変動に関する政府間パネルの第6次評価報告書(IPCC AR6)では、気候変動の脅威は予想を上回って進行していることが示された。政府はもちろん企業、個人に至るまで気候変動対策に積極的に取り組まなければならない。必ずやらなければならないことなら、早ければ早いほど傷は浅くて済むと言えるのではないか。デンマークの風力発電大手のアーステッド社は、国営の石油会社として北海で操業していたが2000年代に入って風力発電に焦点を絞り大型投資に邁進した。しかし、当時は風力による発電コストがまだ高かったことや技術的な問題もあり、大規模な負債を抱えることになってしまった。時の経営陣はこの危機を本業の石油関連資産を売却しながら乗り切り、特に2016年に上場する際に残り石油ガス事業(当時10億ドル)を英国の化学大手イネオス社に売却して事業転換を完了した。もし石油大手がこぞって温暖化ガス削減に取り組んでいる今だったら、買い手はつかなかったかも知れない。アーステッドの事業転換は当時の取締役会や大株主だった政府はリスクが大きすぎると難色を示したようだ。しかし、リスクを取って早いタイミングで動いたことで、今日の地位を築いたと言えよう。

今、上場している世界の石油大手企業は当局、環境団体、株主などの圧力を受けて石油ガス資産を売却している。売却先は上場企業に比べて比較的風当たりの少ない非上場企業や新興国の国営企業だという(The $140bn asset sale:Big Oil's push to net zero - 2021年7月7日付Financial Times)。こうした資産が単に所有者が変わって操業を続けるなら気候変動対策としては何の意味もない。それどころか、情報開示や監視が行き届かないというデメリットさえある。しかし、上述のIPCC AR6が予想している事態が現実となれば、気候変動の厳しい影響はむしろ亜熱帯~熱帯に位置する新興国の方が厳しいともいえる。非上場企業や国営企業と言えども石油ガス生産の操業や温室効果ガス削減に無頓着ではいられないだろう。その時にはもはや石油ガス資産の受け容れ先を探すことは極めて困難となり、そうした座礁資産の押し付け合い、ババ抜きのようなことになり兼ねない。資産売却に限らず、何事も多少なりとも余裕があるうちに先駆的に取り組む方が、追い込まれてやらざるを得なくなってから取り組むより、コストも手間も少なくて済むことが多かろう。

温暖化対策はこれまで社会・経済が動いてきた枠組みを根本から覆すような大変革を求めている。この課題に直面して、「危機的状況は分かっているのだからコストやリスクは覚悟の上で改革を断行しよう」という態度にも、「数百万単位の人の生活に影響のあることだから移行プロセスを含めて慎重に対応しよう」という態度にもどちらにも理はあり、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという問題ではないと思う。それに対して、どちらが得かという観点ではだいぶ答えが見えかけてきているのではないか。

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