ビジョン

編集者の目2021年10月15日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

16年間ドイツ首相の座にあったアンゲラ・メルケル氏が退任を表明した。ドイツ連邦議会の総選挙を経て、現在は後任首相の座を巡り連立交渉が行われている。交渉は難航が予想され、少なくとも数カ月を要するとの見方が有力である。2022年の年頭演説も結局、後継首相が決まるまで暫定的に首相の座に留まるメルケル氏が行うのではないかとの憶測も流れている。メルケル氏は民主主義陣営では稀有な長期安定政権、力強いドイツ経済の復活、金融危機を乗り切りG7で最速の雇用成長を達成、脱原発・脱石炭火力への果断、中東への域外派兵の英断、難民問題への人道的配慮、南欧支援・EU(欧州連合)復興基金など欧州統合に向けた懐の深さ、新型コロナウイルス禍に際しての果敢な行動と丁寧な説明…など、日本から見ると羨ましくなるくらいの強いリーダーシップを発揮してきた。不安定さが増す国際社会のなかでは、称賛に値する実績を挙げてきたと評価してもよいと思う。しかし、筆者の情報源が偏っていることもあろうが、英米系メディアのメルケル評は思いの外手厳しい。

いわく、ドイツ経済・企業の復活は前任のシュレーダー首相が断行した労働市場・資本市場改革の成果に負っているし、南欧の脆弱な経済も反映するユーロがドイツ産業界の実力と不相応にユーロ安(輸出競争力にプラス)となっていることが効いている。実質的な産業強化のための投資を怠り、産業界の過度な中国依存体質を放任・促進するという弥縫策によって「ドイツ経済の独り勝ち」を演出し、むしろ今日に禍根を残した。憲法に当たる基本法が2009年に改正されて財政収支均衡という規律が強化されたこともあるが、公共事業が不足気味でインフラが老朽化して2021年7月の洪水のような惨事を招いた。デジタル化の遅れは否定しようもない。脱原発・脱石炭化は、却ってロシアへのエネルギー依存度を高め、昨今の天然ガス価格高騰に脆弱な経済体質は露わとなった。ここまでは、表現の強弱はあっても我が国のメディアでも伝えられている。

やや言いがかり的な、しかし、本質をついた批判は次のようなものである。メルケル政権は相次ぐ危機に対症療法的な「危機管理」に徹してきただけであり、主体的望ましい姿を目指す「ビジョン」が欠けていたというのである。確かに、2005年の就任以来、世界金融危機、ユーロ債務危機、ロシアのウクライナ侵攻、シリア難民危機、英国のEU離脱、米国でのトランプ政権と米中対立、新型コロナウイルスのパンデミックと危機が目白押しで、それらへの対処に手いっぱいであったことは確かだろう。しかし、こうした危機はドイツにだけに降りかかった訳ではないし、ドイツは小規模な海外派兵はあったものの、国際紛争への直接関与に慎重であった。これに対して、積極的に世界秩序の維持・改善を基本的な道徳観とする欧米社会からすると、経済強国なのに「目指すところが見えない」という批判が起こることは理解できなくもない。

翻って、我が国の現状はどうだろう。日本の「ビジョン」「目指す姿」は何か。もちろん、それは来る衆院選で問われるのであろう。「自由で開かれたアジア・太平洋」は立派なビジョンだと思うが、「目指す」と掲げる以上は実行力・強制力(エンフォースメント)が伴わなければなるまい。「新自由主義の見直し」も賛否はともかく一つの考え方・方向観であるが、具体策が伴わなければ「どこまで行きたいのか」判断できない。グリーンやデジタルは21世紀の必修科目であり、掲げないという選択肢はないが、「遅れを取り戻す」だけでは他者を鼓舞して大きなうねりを生み出すような力の源泉にはなりにくいのではないか。2年前の本欄でラグビー日本代表の、自分たちの特性に合わせた戦闘ドクトリンに触れた。本年2月には、米国企業でミッション・ステートメントが経営の原動力になっている例を紹介した。いずれも、ミッションやビジョンは有効に作用するためには、自身の定義、そもそも自分たちは何者か=企業で言えば事業ドメインをはっきりとさせておく必要があるのではないか。どんな人にも当てはまるような一般的な理想像を追おうとしても、自分たちの本質に適った理想なのか肚落ちしていなければ、笛吹かれども踊れない。政治には、日本(人)の特性に沿った経路を通じて世界に貢献する高邁なビジョンを掲げて頂きたい。

企業も同様だと思う。日本企業のミッション・ステートメントは、どんな状況にでも対応できるように広範な意味合いを持つ言葉が使われていることが多く、そこから事業ドメインや運営ポリシーを読み取ることは難しい。自分たちは「この世界で、こう勝負する」という腹を括った理想なら構成員の共感を生みやすいし、細かいレベルで理想に即して主体的に行動しやすいといえるのではないだろうか。是非、「尖った」ビジョンを期待したい。

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