中国の「ボルカー・モーメント」

編集者の目2021年12月8日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

標題は、野村の香港駐在チーフ中国エコノミストである Ting Lu (陸挺)博士のレポートから拝借した(原題はChina: Beijing's Volcker moment 2021.8.24発行)。当該レポートは2021年7~9月に発行された当社の全レポートの中で最も読まれたリサーチで、2番目によく読まれたレポート(これも中国の経済見通しに関するもの)の2倍近い数のPDFがダウンロードされている。「ボルカー・モーメント」の意味は、中国政府によるインターネット、フィンテック、オンラインゲーム、オンライン学習塾、配車サービス、データプライバシー、フードデリバリー、暗号資産マイニング、電子タバコ、そして不動産に対する締め付けを、1970年代後半の米連邦準備制度理事会のポール・ボルカー議長の強硬なインフレ抑制策に準えたものである。ボルカー議長が高インフレ抑制のために断行した金融引締策は80~82年にかけて米国の深刻な景気後退を招き、ボルカー議長は激しい政治的攻撃を受けた。しかし、結果として米国経済はインフレ抑制に成功し、その後、80~90年代にかけて長期的な景気拡大の地均しとなった。つまり、中国で今、荒療治ながら不動産市場の歪みを解消しておけば、住宅価格を引き下げて(不動産市場に集中している)社会の資源を研究開発やハイテク製造業に振り向け、より持続可能な成長を達成するための正念場にいるという。陸博士は「先行きは未だ不透明で … こうした規制強化が政権の思い描くような結果をもらすとは限らない。」という冷静な結論に至っている。

今ほど、中国に対する見方が割れていることはなかったろう。モルガン・スタンレーの元チーフ・エコノミストだったスティーブン・ローチ氏は、8月の日本経済新聞紙上のコラムで「中国経済について、25年以上の楽観的な見方を貫いてきたが、今では重大な疑念を抱くようになっている。」と述べた(2021.8.12付け朝刊)。ローチ氏の懸念は民間企業を狙い撃ちにするような規制強化が「アニマルスピリッツを抑制」しようとしているというものだ。他方で、JPモルガン・チェース、ゴールドマン・サックスは許可されて中国拠点の100%子会社化を推進し、モルガン・スタンレー、クレディ・スイス、UBSも現地法人の過半の株式を獲得した。従来のドル箱であった中国企業のニューヨーク上場というビジネスが事実上閉ざされつつあるのに、である。直近ではシティグループが中国で証券業免許を申請した。また、テスラのイーロン・マスク氏は米国では当局相手にも攻撃的なコメントを発信しているが、中国での事故やデータの取り扱いに関して中国当局には協力的な態度を示している。そうまでして、中国事業に賭けているように見える。中国に対する悲観論と、米経済人の強気論はどう読み解いたらよいのであろう。

筆者は決して中国の専門家ではない。この点をお断りした上で筆者なりの整理を試みると、目先と中長期という切り口ではなく、短期(6~12カ月)、中期(5~10年)、長期(20~30年以上)という視点で考えることが一つのヒントになり得るのではないかと考える。短期は間違いなく厳しい。不動産セクターの負債問題、不動産市況そのもの、それらに依存した経済モデルの胸突き八丁はむしろこれからだろう。しかも、来秋の共産党大会に向けて70年代後半の米国のように短期的な景気を犠牲にすることも避けなければならないだろう。かといって、不均衡是正を先送りすると90年以降の日本のような長期停滞に陥らないとも限らない。北京冬季五輪を控えて国際社会からの批判にも敏感な中国政府は、実に微妙な舵取りが求められる。

これに対して、2030年くらいまでの中期見通しはさほど暗くないのではないか。過去10~20年の経済的、技術的蓄積はむしろここからモノを言うようになる可能性がある。短期調整の深さにもよるが中流階級の巨大マーケットがあるし、民間の創意が抑圧されたとしても、既にロードマップやアジェンダが決まっている課題に対しては、むしろ多少専制的な体制の方が集中的・効率的に技術開発が進むと言えるかも知れない。日本や民主主義国にとっては、米中対立にも怯まず、自信が漲って、国威が発揚されている様は軍事的な意味ばかりではなく、やはり脅威である。しかし、ビジネスとしては、そこにチャンスがあるならばとりに行くべきという判断もあって然るべきであろう。

さて、問題は2050年くらいまでの長期見通しである。開き直ると、最も権威のある専門家の一人である陸博士に分からないものが門外漢の筆者に分かるわけはない。既定のロードマップ上の競争ではなく新しいロードマップを描く競争であれば、多様性があって、リスクをとった試行錯誤を受容し、個人的な利益に動機づけられた市場経済の方が優位なはずと信じたい。人口減少、高齢化、外交的な孤立の問題もある。しかし、3,000~4,000年間でいくつもの帝国が興亡を繰り返しながら発展してきた中国社会の懐の深さは、建国から70年弱で崩壊した旧ソ連の比ではなかろう。2030年より先の中国がどうなっていくか確定的なことは何も言えないただ、このように考えてきて一つ分かりかけてきたのは、今中国事業に熱心なビジネスリーダーは不確定な夢に賭けている訳ではないはず、ということである。リーダー達は、長くともこれから10年で投資を全て回収して十分なリターンをあげることができる、と考えているのではないか。

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