俺たちはサンダーバードを作っていたんだ!

編集者の目2022年2月10日

野村證券金融経済研究所 所長 許斐 潤

今、アメリカで退職が増えているという。米国労働統計局によると、退職者数は2021年1年では月平均395万人が退職した。月次では11月の450万人でピークを打ったが、12月も434万人が職場を離れた。最近では日本の報道でも取り上げられることが増えているので、気になっている読者も少なくなかろう。一時は新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)対策としての直接給付や、失業保険の加算支給で懐が温かくなった人が「仕事で稼ぐよりも、失業状態でいるほうが多くを得ている」(全米商工会議所)とも言われていた。しかし、南部諸州が加算支給を先行して打ち切り、9月に連邦レベルで加算支給が終了した後も、むしろ退職者は増加トレンドにあった。

筆者は専門家としてこの現象を追いかけている訳ではないが、この「大量退職」は幾つかのレベルに分けられるのではないかと考えている。第一に、単純により高い処遇を求めて転職のために辞職するというパターンである。米国産業界の人手不足は深刻(2021年12月の米国の求人件数は1,093万件)で、求職者は引く手あまたの状況にあると思われる。第二に昨年末までの株高などで十分な資力も得たので、敢えて早期退職を選択した人たちである。巷間、「FIRE: Financial Independence, Retire Early(経済的自立と早期引退)」と呼ばれている動きである。第三にテレワークに代表される「新しい働き方」を実践するために移住したり、それに触発されてライフスタイルを変えたりしてしまった人たちである。特に、2021年後半に退職が一度加速したことは、行動制限の緩和に合わせて雇用者がオフィスへの出勤を再開し始めた時期とも重なる。理想的なライフワークバランスを実現する上で在宅勤務の便利さに気づいてしまった人や、新しい生活に適合して元に戻ることを否定するようなことがあったのかも知れない。

と、ここまでは、少なくとも本人ベースでは「合理的な」選択とも言える。雇用者としては賃金を引き上げたり、職場環境や勤務形態を再構成したりすることによって、勤労者を仕事に誘導する芽も残されていよう。若くして引退した人の中にも、際立った好条件なら仕事に復帰してもよいと考える人がいないこともあるまい。しかし、ここから先は、理屈だけでは動かない根の深い問題を孕んだレベルになる。第四は未だに感染への恐怖から、職場に復帰できないでいる人たちである。これにはコロナ対策を徹底するしかあるまい。事態は段々深刻になっていくが、第五にバーンアウト(燃え尽き)である。米国ではパンデミック下で急増したM&AやIPOなどに対応する大量の案件精査や契約・文書作成などで、若手弁護士や投資銀行職員の疲弊が伝えられている。また、慣れないオンライン授業と生徒一人ひとりと向き合うことの両立に疲れ切った学校の先生の辞職が急増しているという。2021年1~11月で公立学校の先生が80万人超、民間の教育従事者が55万人近く退職した(2022年2月1日付けThe Wall Street Journal)。そして、第六に筆者が最も深刻な事態だと捉えているのが「アンチ・ワーク・アクティビズム」、労働忌避行動主義とも言うべき思想が浸透しつつあることである。2021年初めに個人の株式投資熱を煽ったことで有名なインターネット掲示板レディットには「r/antiwork」というスレッドが立ち、約160万人のフォロワーがいるという。その主張は、自分らしい余暇を優先するために僅かな時間だけ自営かバイトで生活費だけを捻出するという極から、生活要求水準を超える労働は全て資本家に搾取されているというマルクス主義的文脈を帯びた極にまで至っている。拡大し続ける経済格差を背景に米国でも若者が左傾化しているという情勢に鑑みて、水面下で看取できない事態が進行している懸念もある。

「大量退職」が起こっているのは米英だけで、日本や他の先進国では見られない現象だという主張もある。しかし、本当に対岸の火事と言い切れるだろうか。2年前の当欄で、筆者は(コロナ後の世界では)「会社は今以上に従業員にとっての価値を提示しないと、優秀な人材の留保・採用の困難に陥りかねない。…真っ当な常識人が躊躇なく受け入れ、賛同・共感できる「徳」のようなものを備えた会社に若い優秀な人が集まるのではないかと思われる。」と論じた。不透明な事業環境での組織運営の要諦である「心理的安全性」を醸成するためには、厳しいながらも開放的な組織文化と並んで「大切なものの共有」が重要とされる。仮に「大量退職」の直撃を受けないとしても、「働く意味」を実感し、充実感・達成感を得ながら働くことは、組織パフォーマンスを上げる上からも非常に重要な課題である。

かつて米国の象徴だった自動車産業の中心地デトロイト出身のロック歌手、ボブ・シーガーは「We were making Thunderbirds … long and low and sleek and fast …」(俺たちはフォード・サンダーバードを作っていたんだ … 長くて、(車高が)低くて、つやつやした流線型で、速くて …)と謳った。働くことは単に今日明日食べるためだけではなく、手掛けた製品への誇りと愛に満ちた営みだった。決して回顧主義で言うのではなく、若い人には誇りを持って仕事に当って自己実現・成長を達成して欲しい。その条件を整えるのは、大人の役目である。

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