声に出す「勇気」と「責任」

経済金融コラム2023年10月16日

野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤

この夏、金融市場での話題は米国利上げの行方、円安、中国経済に集中した。他方、茶の間での話題は中古車販売会社と芸能事務所をめぐる不祥事に尽きたように思える。中古車販売会社の方は監督官庁による検査が始まった段階で、かつ関係当事者による社外調査委員会も「中間報告」レベルであり、最終的な評価が定まった問題ではない。他方、芸能関係の方はそもそも我々の本分である経済・金融調査の領域外の事案であるし、下手に言及したところで「興味本位」の誹りは免れない。その意味では、本コラムで取り上げるような話題ではないと思っていた。

そうした中、たまたま閲覧した或るウェブページで米国における性犯罪に関する書籍が紹介されていた。それは著名投資家であるジェフリー・エプスタインの児童への性的暴行事件と、有名映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力・性的虐待事件に関するものであった。特に後者はいわゆる「#MeToo運動」の契機となった事件でもあり、日本でも一定の報道はあった。しかし、日本では刑法で性犯罪に対する罰則が強化されたのが2017年とつい最近で、一般に日本の性犯罪に対する意識は主要先進国の中では「周回遅れ」の状況にある。こうした風潮もあってエプスタイン、ワインスタイン両事件の日本での報道量は世間の大きな関心を呼ぶまでには至っていなかった。恥ずかしながら筆者も日常的に英米経済メディアに接していながら、両事件を強い関心をもってチェックしてはいなかったことを、反省を込めて告白しておく。

ジュリー・K・ブラウン著「ジェフリー・エプスタイン 億万長者の顔をした怪物」(2022年、ハーパーコリンズ・ジャパン)は、マイアミ・ヘラルド紙の記者である著者が、エプスタイン事件を暴く調査報道の過程を描いた作品である。本コラムの性格上、エプスタインが犯した犯罪の詳細を記述することはしないので、詳細は同書にあたって頂きたい。筆者が特に憤りを覚えたのは犯罪そのものもさることながら、エプスタインが経済的、政治的影響力を駆使して検察を巻き込み被害者無視の司法取引で犯罪の矮小化を工作したことであった。資金力を背景に著名弁護士を雇えば罪の軽重はどうにでもなり得る、被害者や証人の人格攻撃で証言の信憑性を毀損する手法など、今更ながら米国の司法制度への強い疑問も喚起した。一方、そうした戦いを粘り強く勝ち抜いてエプスタインの罪の重さが明らかとなった後には、エプスタインと関わりのあった英王子が公的地位を失ったほか、エプスタインから寄付を受けていた研究機関の責任者が辞任に追い込まれるなど、性犯罪に対する欧米社会の「厳しさ」が先鋭化した。ちなみに、Amazon Prime Videoでは「サバイビング・ジェフリー・エプスタイン-アメリカの闇-」が視聴できる。

ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー著「その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い」(2020年、新潮社)は、ニューヨーク・タイムズの調査報道チームが、証言してくれる被害者をフォローしながらワインスタインの犯罪を追うプロセスがメインである。終盤にはトランプ前米大統領が指名した最高裁判事候補のブレット・カバノー氏の高校時代の暴行疑惑にも触れられている。ワインスタインも著名弁護士を多く雇い対応策を講じている。特に秘密保持契約を含む示談に持ち込んで被害者の口を封じたり、ワインスタインの映画界での名声と被害者のキャリア形成を餌に犯行に及んだりしている点が、報道されている日本の芸能事務所のケースと酷似していると感じた。同書はワインスタイン犯罪ももちろんだが、それぞれの事情で声を上げられなかった被害者たちの心境の変化や、勇気を振り絞って証言に至った経緯を丹念に描写している。上述の通り、この事件を契機に被害者の一人が旧ツイッターで「Me tooと声を上げるよう」に呼びかけて世界的なセクハラ告発運動の契機となった。なお、同書は俳優のブラッド・ピットも制作に参画して映画化された(映画名「SHE SAID」は同書の原題)。

当社(野村グループ)の行動規範は20項目に亙っているが、第16項に「声を上げる責任」を謳っている。心理的安全性の観点から発言しても拒絶されたり罰せられたりしないという「権利」を超えて、組織を前進させるために発言する「責任」があるとしており、画期的な内容だと思っている。他の項目も大変重要だが、筆者が最も好きな規範である。「その名を暴け」のなかで、カバノー判事を告発した女性は「…私が手にした勝利は、自分の話を威厳をもって世界に向かって話したこと…これで次の世代の被害者はもっと声を上げやすくなるかもしれない。」と述べている。つまり彼女は、自分のために声を上げただけではなく、次の世代、ひいては社会全体に福音を与えたともいえる。声を上げることは、特に性犯罪などに関しては特別に「勇気」のいることであることを十分に理解した上で、社会や組織を前進させるための「責任」であることを改めて意識した好著であった。

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