ストックの公平性とフローの公平性

経済金融コラム2024年1月29日

野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤

2024年1月4日付の日本経済新聞で、ハーバード大学のクローディン・ゲイ学長が辞任したことが報じられた。学内の反ユダヤ主義への対応や、論文での盗用疑惑を巡って、政財界から圧力をうけてのことであった。実は、23年12月6日の米下院・教育労働委員会の公聴会で、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、ペンシルバニア大学の学長が、学内での反ユダヤ主義的発言を巡って証言した。そこで「反ユダヤ主義発言は直ちに学則違反に該当する」と切り捨てなかったことを非難された。さらに、有力卒業生が大学への寄付を控えると通告したこともあり、ペンシルベニア大学のエリザベス・マギル学長は公聴会直後に辞任した。その時点ではハーバード大学のゲイ学長は、同大理事会からの支持を得て地位は安泰のようにも見えた。しかし、その後ワシントン・フリー・ビーコンという保守系ニュースサイトが同学長の過去の論文での盗用疑惑を報じ、事態は正に炎上した。大学の大物卒業生からの指弾もあり、同学長は年初に辞任を余儀なくされた。筆者はこのトピックをフックにしてダイバシティーに関する論考を展開しようと、文献調査などの準備を続けてきた。そして、いよいよコラムを執筆しようとした1月26日の日本経済新聞に、ファイナンシャル・タイムス紙のコラムニスト、ラナ・フォルーハー氏の「米企業、多様性から収益性へ」というオピニオンの翻訳記事が掲載されてしまった。

普通なら、新聞に類似の趣旨の記事が掲載された直後に、さも「私の意見です」のような体裁でコラムを書くのは良い恰好ではないし、憚られるところである。フォルーハー氏の論調は「・・・アイデンティティーや包摂性についてより深く、真剣に考える契機になる・・・」という整理であり、これに反対するつもりはない。しかし、筆者はやや角度を変えてこの問題を取り上げたいと考えた。米連邦最高裁の判決など、基本的な事実関係については、是非、日経新聞の記事もご覧頂きたい。

学者として論文の盗用が許される行為でないことは確かであり、同大の調査でもゲイ氏の論文に不適切な引用を発見したとしている。一方、研究上の不正行為には当たらないとしており、学長辞任に直結する問題だったのかは筆者が入手可能な報道やネット上の情報からではよく分からない。他方、人種やアイデンティティーによる政治活動が専門のゲイ氏は、学長就任以来、学内のダイバシティー施策を積極的に進めてきた。その結果、大学当局が監視機関的に振舞っていたことを一部の保守的な教授陣が煙たがっていたようである。折しも、米国の高等教育機関の「左傾化」に政財界がいら立っていたという素地があった。全米51のトップ教養学部教授陣の調査によると、2018年時点で宗教学教員の民主党員:共和党員比率は70:1、文学では48:1、哲学・歴史・心理学では17:1、政治学では8:1だったという(The Wall Street Journal、23年12月18日)。ハーバード大学の学生新聞であるハーバード・クリムゾンによれば、同大人文科学教員の4分の3は政治的にリベラルで、保守派は僅か3%だったという。この状況で、寄付取消しや盗用疑惑など抗えない理由を盾に保守派が強烈に巻き返しを図ってきたという構図であろう。現に、アメリカの政財界では#MeToo運動やBLM運動への反動として、反ダイバシティー、アンチDEIの声が高くなっている。

その依拠するところが「Merit or Diversity(実力か多様性か)」という議論である。曰く「組織にとって多様性が重要なことは確かではあるが、力に差があるのなら実力をある者を加える方が組織にはプラスのはずだろう」という。一瞬、真っ当な議論のように聞こえる。大学入試における差別是正措置に関する23年6月の最高裁判断も、「マイノリティーに優先枠を設けたら、マジョリティに不公平」という論法だった。これに2つの観点から異論を差し挟みたい。第1に、「実力のあるものを揃えれば組織力が上がる」訳ではないのではないか。四番バッターばかりを揃えても戦略性のある打線は組めない。そもそも同質性が硬直性を生む(イナーシャ)から、異分子を入れようという議論ではなかったか。類似の遺伝子だけの集団は特定の疫病で全滅する恐れがあるから、(今すぐは役に立たないように見えても)違う遺伝子を混入させておくことは種の保存・繁栄に意味がある。第2に、本稿のタイトルの意味だが、現状(断面、ストック)が公正でないとしたら、増分(新規、フロー)で逆向きの不公正が累積しないと状況は改善に向かわない。クォータ制の論拠である。たまたまストック不公正の調整期に、フローの逆不公正の制約を受ける人にとっては堪らないかも知れない。しかし、それに先立つ数十年(数百年)に亙って不公正が蓄積してきたので今の姿があるのだとすれば、少なくとも数年間は我慢を甘受しなければならない。ゴールは長期・持続的な全体の繫栄なのだから。

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