誰が本当のボスなのか?

経済金融コラム2024年5月28日

野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー兼アドバイザー 許斐 潤

我々にとって、資本市場がもたらす規律のお手本となっているアメリカ市場で何か変なことが起こっている。2024年1月、米国デラウェア州の裁判所は、テスラのイーロン・マスク氏の最大560億ドル(約8兆円)の報酬提案を却下した。その根拠は同提案を決定した2018年当時の同社の取締役会がマスク氏と個人的に近すぎ、報酬を巡る意思決定の過程に問題があったとした。4月には、歌手のテイラー・スウィフトが新作の販促をTikTok上で行うと発表した。ただ、その時、彼女の所属するユニバーサル・ミュージックとTikTokは契約条件を巡って揉めており、2月にユニバーサルの全アーチストがTikTokから楽曲を引き揚げたばかりだった。それだけに国民的歌手の独断専行はユニバーサルの経営陣を狼狽させた。こうした動きの最たるものは、2023年11月のオープンAI社のサム・アルトマンCEOが同社の取締役会から突如解任された騒動だろう。その後は周知のとおり、マイクロソフトがアルトマン氏の受け入れを表明したり、オープンAIの9割超の社員が退職をちらつかせたりした。結局、取締役会側が譲歩する形でアルトマン氏の復帰が決まった。日本では取締役会決議の手続き上の不備や、非営利団体が営利企業を傘下に抱えるガバナンス構造の問題だったという整理が主流だった。確かにそうした面もあったろうが、直接事情に通じていない我々が海を隔てて事態を詮索したところで何も始まらない。ただし、このようなことが続くならば、従業員の多くが心酔するようなカリスマ・エンジニアが率いるスタートアップ企業への投資には、純粋なファイナンシャル・スポンサーは二の足を踏む事態にも陥りかねない。取締役会というのは、資本市場の論理に合致しなければ、創業者で独裁者だったスティーブ・ジョブズでさえ追放できる権限と責任を有しているのだ。

テスラをめぐる話題にはさらに続きがある。報酬を巡る裁判所の判断を受けて、マスク氏は報酬プランの再確認と、テスラ社の法人登記地を「より株主フレンドリーな法体系の」デラウェア州から、「より企業(経営者)フレンドリーな会社法制を敷く」テキサス州に移すことを、2024年6月13日の株主総会に諮かろうとしている。現取締役会も、マスク氏への報酬を認める方向で調整を進めているようである。これは冒頭のようなマスク氏との個人的な関係に基づいているわけではなさそうだ。テスラ以外にスペースX、ニューラリンク(人間の脳とコンピュータを繋ぐインターフェイス開発)、ボーリング(トンネル超高速掘進)、X(旧ツイッター)、xAI(AI開発)と6社の経営をかけ持つマスク氏に、何とか(今のところ唯一の上場企業である)テスラの経営に専念して貰うための方策である。現にマスク氏は、自身にテスラの議決権の25%を認めない限り、AI・ロボット開発はテスラでは行えない旨の発言をしている(現在の持ち株比率は13%)。AIやロボット技術は自動運転やロボタクシーの中核技術なので、それらがテスラから切り離されると、同社の将来に翳を落とすことになる。外部株主が大半を占め、機関投資家保有も多いテスラでそんなことは許されまい。マスク氏自身も同社の取締役だから、取締役の忠実義務違反に当たりかねない。

これらの事例の含意は組織設計という側面では、本来の指揮命令系統とは別の「裏の」実力者がいる組織は機能不全に陥りやすい、ということである。マンモス大学、有名歌劇団、強豪私立高校野球部など、正式な統治フローになっていないのだから、当然、適切な牽制機能が組織設計に埋め込まれていない。これでは、組織は正しく回らない。倫理・職業基準という側面では、「野球さえ上手ければ、球場外では何をしても良い」わけではないということである。野球選手も法律・道徳といった社会の規律には当然服さなければならないし、常軌を逸した場合の報いは必ずある。株式会社にあっては財務資本提供者である株主は年次株主総会で、株主の代表である取締役が取締役会で、株主利益の長期的・持続的最大化を目的として、執行陣を監視、必要があれば是正措置をとるというのが規律である。ここでいう持続的というのは、「他のいかなる犠牲を払ってでも」という意味ではない。長期的に見て株主以外のステークホルダーの反発・離反・不信を招かない範囲で、ということである。成功した企業には往々にして天才的な技術者や、卓越した指導者がいるだろう。彼ら/彼女らの貢献が大きい場合には、生み出した価値≒市場価格に見合った報酬が与えられるべきであるのは当然である。しかし、彼ら/彼女らが好き勝手していいというわけではない。天才は企業活動の中心であり、原動力かも知れないが、天才だけで事業が成り立っているわけではない。天才の身勝手が周囲へのしわ寄せとなっているとすると、そうした企業の持続可能性には疑問符が付くことになろう。わが国では「天才の暴走」型の資本への造反は起こりにくい地合いにあるかも知れない。しかし、彼の地で起こっていることに「何かおかしい」と感じる感性を磨いて、逆の意味で他山の石として欲しい。

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