物価安定目標達成の先

経済金融コラム2024年8月26日

野村證券エグセクティブ・エコノミスト 美和 卓

日本銀行によるいわゆる異次元緩和終了の拠り所となったのは、「見通し期間終盤にかけて物価安定の目標が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況」であった。市場関係者は、物価安定目標達成に向けた歩みが着実である限り、日銀は着々と利上げを進めていくとみており、7月金融政策決定会合での政策金利水準0.25%への利上げ決定はそうした見方を裏付けるものとなった。24年春闘での高いベア率を反映し、一人当たり賃金上昇率の加速が確認されたことが、物価安定目標達成に向けた日銀自身の進捗評価を一段と前進させ、7月利上げに繋がったとみられる。

やや古い材料ではあるが、5月27日の講演の最後に内田副総裁が発した言葉「This time is different」は、物価安定目標達成に対する日銀の「自信」をうかがわせる。自信の裏付けとなっているのが、女性やシニア層からの追加的な労働投入余地が限られつつある労働市場環境の不可逆的変化である。換言すれば、解消余地がなくなりつつある、人手不足の本格化である。

人手不足の深刻化が、今春闘でのベアの大幅拡大に代表される賃金上昇率の加速の原動力であることに疑問を挟む余地は少ない。一方、企業のコストや収益性の観点では、単に労働力の希少性だけを背景とした賃金上昇の持続性には疑問符が付される。基本的な収益力が向上していない企業が、単に人手不足対策のためだけに報酬水準を引き上げていけば、いずれ財務的な限界に到達することは必定であろう。感染症禍収束後に増加基調に転じた企業倒産の少なからぬ部分が、「人手不足倒産」となっているのはその象徴である。

最近の日銀からは、人手不足を日本の経済構造変革加速の起爆剤として活用しようとの意欲も見え隠れする。内田副総裁は、前述の講演で、「人手不足は、個々の企業の変革と経済全体のダイナミズムをもたらす」と断じている。5月21日開催の「金融政策の多角的レビュー」に関するワークショップ第2回では、賃金、物価の上昇率が押し上がっても、その分布の中央値付近に、従来みられた「ゼロ%の山」のような大きな山ができることは必ずしも好ましくない、との指摘があった。これは、商品・サービスや企業、産業の優勝劣敗に応じて物価や賃金が相応に「ばらついている」経済環境を理想として想起していることを示唆する。物価安定目標実現に向けた不可逆的な原動力である人手不足深刻化をテコに、新陳代謝やダイナミズムの大きい経済構造の実現を目指していることの傍証であろう。日銀は、物価安定目標実現の先にさらに野心的な課題を持って政策運営に臨んでいる可能性がある。

新陳代謝やダイナミズムの大きい経済は、より高い生産性や潜在成長力を備える可能性が高い。金融政策運営の観点からみて、新陳代謝やダイナミズムの大きい経済は高めの自然利子率や中立金利を伴い、「名目金利のゼロ制約」に直面しにくいという特性も併せ持つ点で、確かに日銀にとっても好ましい。

しかし、ダイナミックで潜在成長力の高い経済は、その実現過程で、人手不足深刻化を契機とした企業の倒産や統廃合という痛み、摩擦も伴う。痛みを伴いつつ生じる古い企業の退出と同時に、新しい企業が生まれ、それがダイナミズムの源泉ともなるわけであるが、次の時代の経済成長の原動力となる新しい芽は、資金調達など金融面では脆弱性を抱えているはずであり、新しい芽を摘み取らないような細心の配慮も求められるはずである。

物価安定目標達成のさらに先に、これまでとは違うダイナミックな日本経済の実現を目指しているとするならば、物価安定目標達成への道程とともに進むであろう金融政策の正常化による金融緩和度合いの調整に対し、日銀は存外に慎重な姿勢で臨んでくると考えるべきである。

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