1967年

海外拠点の強化

香港現地法人が1973年に移転入居したビル
拡大
香港現地法人が1973年に移転入居したビル

戦後、海外投資家による日本企業への投資は、1950年(昭和25年)に制定された外資法によって制限されていました。しかし1967年(昭和42年)以降段階的に自由化され、海外投資家による対日投資が本格化しました。一方、日本の投資家による海外企業への投資は、1970年(昭和45年)、外国証券の投資信託への組み入れ認可から始まりました。翌年には、個人投資家も外国証券を購入できるようになり、国境をまたぐ資本の行き来が活発化しました。

 

野村證券は、この動きをビジネス・チャンスととらえて海外拠点の拡充に取り組み、1967年(昭和42年)に香港、1969年(昭和44年)に米国、1972年(昭和47年)にはオランダに、各エリアの母店となる現地法人を設立して、海外拠点の強化を進めました

オランダにあった欧州の母店

米州現地法人入居のビル(奥)
(1970年~1983年)

1967

海外拠点の強化

1968年

新・従業員持株制度の発足

従業員持株制度は、給与所得者が退職まで自社株を継続購入することで、退職後の資産を形成する仕組みです。1968年(昭和43年)、米国の類似制度を参考にし、野村證券が開発しました。

 

株価の上昇によって、従業員の福利厚生が充実するだけでなく、経営参画意識の醸成や株主構成の安定化にもつながるといった企業側のニーズとも重なり、採用企業が一気に拡大しました。この制度で初めて株式を保有する人も多くおり、証券の大衆化に大きく寄与しました。

 

現在では、上場企業のほとんどが採用する制度となり、野村證券はその約40%(会員数では約55%)の事務を受託しています。

1968

新・従業員持株制度の発足

1968年

日本初の時価発行増資

~時価発行の定着に尽力~

日本楽器製造による
時価発行増資の決議公告
拡大
日本楽器製造による
時価発行増資の決議公告

1967年(昭和42年)の資本自由化以降、海外投資家が日本の株式市場に影響を与えるようになりました。当時、日本企業の多くは株式を額面で発行しており、配当も額面金額を基準としていました。そのため、投資指標として「配当利回り」が多く用いられていました。

 

一方、海外投資家は配当よりも利益成長に着目し、主に株価収益率(PER)で投資判断を行っていました。その結果、海外投資家が好む成長企業の株価は、配当利回りでは説明がつかない水準に上昇しました。これにより、日本でもPERに基づく投資判断が広まったのです。

PERの普及は日本企業の資金調達に影響を与えました。1968年(昭和43年)、日本楽器製造(現・ヤマハ)は額面発行に比べて一株あたり利益が薄まりにくい時価発行増資を日本で初めて実施したのです。野村證券は、幹事証券として本件をサポートしたのを皮切りに、時価発行増資の定着に尽力しました。

1968

日本初の時価発行増資

1979年

「バイ・ジャパン」キャンペーン

世界の中央銀行関係者が出席した中銀セミナー

1979年(昭和54年)のイラン革命を契機に第二次石油危機が起こり、石油価格が急騰。産油国に膨大な余剰資金、いわゆる「オイルマネー」が蓄積されました。

野村證券は海外投資資金を日本市場へ呼び込むべく、海外営業体制の大幅な刷新を行うとともに「バイ・ジャパン」キャンペーンを実施。アナリストとセールスがキャラバン隊を組んで欧州、中東の投資家を訪問し、電機・精密業界などの日本株のセールス活動を積極化させました。

また同時期に、日本国債のセールスにも注力。世界の中央銀行関係者を日本へ招待し、日本経済に関するセミナーや京都での園遊会など日本を理解してもらうイベントを実施しました。このような取り組みにより、海外から日本への資金の流れが年々増加しました。

1979

「バイ・ジャパン」キャンペーン

1980年

「中期国債ファンド」開発

~公社債ビジネスの積極展開~

ボンドMIS

日本の国債は、第一次石油危機後の不況を背景に1975年(昭和50年)に発行額が急増しました。野村證券は支店に「国債コーナー」を設置。新聞広告やテレビCMを積極的に打つなど、個人向け販促活動を展開しました。1976年(昭和51年)には金融機関向けに公社債ポートフォリオ管理システム(ボンドMIS)を開発。金融機関の運用ニーズに沿った提案を行い、公社債流通市場の拡大に貢献しました。

中期国債ファンドのパンフレット

1978年(昭和53年)、満期が2~4年の中期国債が登場しましたが、毎年大量に発行される国債を販売し続けるのは、相当な企業努力が必要でした。そこで野村證券は、好利回りの自由金利商品として米国で注目されていたMMF(マネー・マーケット・ファンド)を参考に、中期国債などを組み込んだ投資信託「中期国債ファンド」を開発。1980年(昭和55年)より募集を開始しました。

「1カ月経てば、手数料なしで換金可能。利回りは1年定期預金並み」という業界初の商品性が評判を集めて大ヒット商品となり、MMF(マネー・マネージメント・ファンド)やMRF(マネー・リザーブ・ファンド)など、その後の高流動性商品の先駆けとなりました。野村證券は、国債保有者のすそ野拡大という点で経済発展に貢献しました。

1980

「中期国債ファンド」開発